大判例

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仙台高等裁判所 昭和50年(う)120号 判決 1978年5月09日

被告人 隈太茂津、市川良美

主文

原判決中被告人市川良美に関する部分を破棄する。

同被告人は無罪。

被告人隈太茂津の本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は同被告人の負担とする。

理由

(理由目次)

第一  被告人隈の弁護人小坂、同内田の控訴趣意第一点、同弁護人柳原の控訴趣意第一点について

一  接触地点

(一) 目撃証言の検討

(二) 事故調査委員会が推定した接触地点

1 報告書の認定の当否

(イ) 接触状況

(A) 捜査当局の推定

(B) 報告書の推定

(C) 原判決の認定

(ロ) 破断分離の状況

(ハ) サーボ機器の軌跡計算

(A) サーボ機器選択の合理性

(B) 初期条件の合理性

(C) まとめ

(ニ) 推定接触地点と目撃証言

(ホ) フライト・データ・レコーダ記録値による推定接触地点

(ヘ) 防衛庁の調査による推定接触地点

(ト) むすび

2 反証等についての検討

(1) 被告人隈の供述について

(2) 海法鑑定書について

二  全日空機の航跡について

(一) 千歳飛行場離陸後函館NDB上空通過まで

(二) 事故調査委員会が推定した、右上空通過後接触までの航跡と当裁判所の認定

(三) 原判決の説示について

(四) 海法鑑定書について

三  自衛隊機の航跡と相対飛行経路

(一) 被告人両名の離陸から機動隊形の編隊飛行に入るまで

(二) その後の航跡と相対飛行経路

(イ) 事故調査委員会の推定する自衛隊機の航跡について

(ロ) 接触直前の相対飛行経路

(I) 接触前四秒以降の相対航跡

(II) 接触前三分以降の相対航跡

(A) 隈機の航跡

(B) 市川機の航跡

(C) まとめ

四  接触時刻について

第二  被告人隈の弁護人小坂、同内田の控訴趣意第二点、第三点、同弁護人柳原の控訴趣意第二点ないし第四点、被告人市川の弁護人山崎、同大沢の控訴趣意第一点ないし第五点、同弁護人藤本の控訴趣意第一点、第二点について

(当裁判所の判断)

(一)  当裁判所の認定した接触地点、相対飛行経路

(二)  事故調査報告書による被告人両名の全日空機に対する視認について

(三)  ジエツトルートJ11Lと機動隊形飛行訓練

(四)  盛岡訓練空域設定の経緯

(五)  原判決の指摘する厳重な見張り義務について

(六)  被告人らの注意義務違反について

(七)  むすび

第三 被告人隈の弁護人小坂、同内田の控訴趣意第四点について

第四 被告人隈の弁護人小坂、同内田の控訴趣意第五点について

第五 被告人隈の弁護人小坂、同内田の控訴趣意第六点について

第六 むすび

(用語例)

全日空機

全日本空輸株式会社所属ボーイング式七二七―二〇〇型JA八三二九機

隈機、教官機

被告人隈操縦のF―八六F機

市川機、訓練機

被告人市川操縦のF―八六F機

自衛隊機

隈機および市川機

事故調査報告書

全日本空輸株式会社ボーイング式七二七―二〇〇型JA八三二九および

航空自衛隊F―八六F―四〇型九二―七九三二航空機事故調査報告書

本件控訴の趣意は、被告人隈太茂津の弁護人小坂志磨夫、同内田文喬両名作成名義、同弁護人柳原武男作成名義、被告人市川良美の弁護人山崎清、同大澤三郎両名作成名義、同弁護人藤本時義作成名義の各控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する検察官の答弁は、仙台高等検察庁検察官検事及川直年、同有元芳之祐両名作成名義の答弁書のとおりであるから、これらを引用する。

第一被告人隈太茂津の弁護人小坂志磨夫、同内田文喬の控訴趣意第一点、同弁護人柳原武男の控訴趣意第一点について

所論は要するに原判決は、全日空機、教官機、訓練機の相対飛行経路、接触地点、接触時刻の認定に当り、証拠によらず、または証拠法則に違背した認定をし、事実を誤認したもので、破棄を免れないというのである。

よつて所論に鑑み記録を精査し、当審における事実調べの結果をも斟酌して右各点につき順を追つて検討考察を加えることとする。

一  接触地点について

原判決がこの点につき、ジエツトルートJ11Lの管制上の保護空域内西側で、原判決添付第二図面の西端部を除く雫石町付近上空とする幅の広い認定をしていることは所論のとおりである。

これに対する当裁判所の認定は、以下述べるとおりで、その結論は原判決の右認定と相異するのであるが、右誤認が判決に影響を及ぼさないことは後記に説示するとおりである。

(一) 先づ本件接触を目撃した各目撃者の証言を検討する。

(A) 橋本裕臣の検察官に対する昭和四六年八月一〇日付供述調書

同人は角館町立中川小学校教諭(当時四〇才)であるが、要旨次のとおり述べている。即ち海抜一、五八三メートルの焼砂に到着したのは午後一時五〇分頃であつた。岩手県側は快晴で岩手山の上空にいくらか雲がある位であつた。付近にいた生徒たちに「この山の尾根から東側は岩手県で、あの付近は昨年遠足に行つた小岩井農場だ、あの付近に網張のスキーリフトがある、あそこが雫石町でその東の方にある場所が盛岡市だ。」と教えた。そんな話をしていたとき田口美由喜が、飛行機が飛んで来たというので空を見たらこの方から南に向つて飛行機が飛んでいるのが見えた。岩手山の頂上の東側を飛んで来たようであつた。タバコ箱大位に見えた。そうしているうち南の方の空から北進してくる飛行機があつた。一機だけキラキラさせながら北進して来た。南進機より自分達の方に近く飛んでいるように思われた。大きさも同じタバコ大に見えた。自分の真東方面で北進機が飛んで来たと思つたとき右に旋回してゆくのが判つた。旋回したなと思つたらすぐ白い煙が見えた。音は聞こえなかつた。白い煙を吐いたあとだんだん低くなり、東南東の山に吸い込まれるように見えなくなつた。もう一機は風に流されるように雫石町の北側に落ちて行つた。尚同人は白い煙が見えた地点として同調書において図示しているが、これを当審事実調べの地図(写)に照らすと、J11Lの中心線が通つている狼森の西方二キロメートルほぼ極楽野の南で雫石町の北方約七キロメートルの地点であることが認められる。

また同人が司法警察員と共に同年八月二八日焼砂に登頂し目撃状況を指示説明した司法警察員作成の同月二九日付捜査報告書の記載によれば、橋本裕臣は「両方の飛行機をそれぞれ目で追つていたところ、篠ヶ川原部落と駒木野部落の中間でやや駒木野部落寄りの上空で、小型機が右に旋回し始めたところに大型機が来て二機が重なるようになり、飛行機が一機に見え白い煙がパツと上つた。二機が重なつたようになつた直後飛行機は南の方に移動しながら雫石町の上空付近で、黒い煙を上げ、小型機らしいのがバラバラになつて落下し始めた。黒い煙が上がつたあと、大型機は両翼をつけたままで尾部から白い煙を出しながら雫石町の上空付近から同町の南の方にある山の中に落ちて行つた。小型機を発見してから大型機と衝突するまでの時間は一〇秒位であつた。大型機が山の中に落ちた直後腕時計を確認したところ午後二時四分であつた。」と述べ、且つ同人が白い煙が見えた地点として現地で指示した方向は前記極楽野の南より更に南方に移り、焼砂の観測地点と中丸谷地を結ぶ線で雫石町の北方約五キロメートルの地点であることが認められる。

(B) 田口美由喜の検察官に対する昭和四六年八月一一日付供述調書

同人は中川小学校六年生(当時一二歳)であるが、要旨次のとおり述べている。即ち先生や生徒二九人位で駒ヶ岳に登山し焼砂まで来たとき岩手山の方を見たら頂上東側の方から南に向つて飛行機が飛んで来た。それが真正面のお月さんの下まで来たところ白い煙を吐いた。それから一回転したように見えた。そして煙を吐きながら右側の方の三角のとがつた山の方に落ちた。南から北に向つて飛んで来た飛行機は見なかつた。

なお盛岡地方検察庁検察事務官作成の昭和四六年八月一三日付報告書によれば緯度観測所高木天文観測研究部長外一名の計算により北緯三九度四五分一二秒四八、東経一四〇度四八分三二秒二三の焼砂における前記日時頃における月の方向は、真南から東へ四五度五三分三四秒一の方向で水平面から真上へ一八度四〇分九秒二四の方向であることが明らかで、同報告書添付の五万分の一の地図に照らすとその方向は焼砂から雫石町の方向に当ることが認められる。

(C) 大和田克紀の検察官に対する昭和四六年八月一〇日付供述調書

同人は中川小学校六年生(当時一二才)であるが、要旨次のとおり述べている。即ち焼砂で雫石町の方に向つて左側の上空をマツチ箱大の飛行機が一機南の方に向つて飛んでいるのを見た。同じ高さを真直ぐに南に向つて進んでいるように見えた。雫石の市街地の上空か少し東の方にはずれる感じの方向に飛んでいるように見えた。南の方から飛んで来た飛行機一機も見た。北からの飛行機より半分以上は小さい感じであつた。高さは同じ位であつた。小さい方は上下、左右どちらであつたかはつきりしないが動いている感じで北の飛行機に比べて自分達がいた側の方を飛んで来たように感じた。北の飛行機が雫石町の真上まで来なかつた頃南の方から来た飛行機が東の方に曲つたように感じた。その後どうなつたかはつきりしないが、雫石町から南の方の山のようなところだつたと思うが、突然上空で飛行機の破片のようなものがピカピカ光つて落ちるのを見たが、この付近で黒いものがくるくる回るようになつて真直ぐに下に落ちてゆくのを見た。またもう一つの黒いものは雫石町の南東の山の中の方に落ちて行つた。そのあとは飛行機は見えなかつた。二機とも白い煙のようなものを出していた。

(D) 小玉均の検察官に対する昭和四六年八月一〇日付供述調書

同人は中川小学校六年生(当時一二才)であるが、要旨次のとおり述べている。即ち焼砂で田口美由喜が飛行機だといつたので東の方を見た。北の方からタバコ箱位の大きさの飛行機が一機右側の南の方に飛んでいるのが見えた。雫石町の上空あたりに来たとき急に白い煙を吐いて右の方に静かにだんだん低くなつて行つた。その外に赤い炎のようなものを出したものが真直ぐに落ちてゆくのを見た。真直ぐに落ちたものは、はじめキラツキラツ光つてから赤い炎のようなものを出しながら真直ぐに落ちた。南から飛行機が来たかどうか見ていない。

(E) 今野利明の検察官に対する昭和四六年八月一〇日付供述調書

同人は角館公民館の主事(当時三〇才)であるが、要旨次のとおり述べている。即ち焼砂では岩手県側の方は殆んど雲はなく遙か北上山系の方に薄い雲がかかつている程度で非常に視界がよかつた。橋本先生が東南の方に見える雫石町を教えていた。生徒が飛行機が飛んで来たと叫んだ。真東の方を見た瞬間花火でも上げたような白い煙が青空の中にぽつかり浮び、その付近から太陽光線に反射してキラキラ細かい破片のようなものが南東の雫石町の方に流れて落下してゆくように見えた。初めに見た白煙の付近から白にいくらか黒味がかつた煙がまじつたような煙がやはり雫石町方面になびくように落ちてゆくのが見えたが途中でそれは見えなくなつた。白い煙を見た方向は焼砂から真東か少し南に寄つた付近で雫石町の市街地から真北の方に見たことは間違いない。なお同人は同調書において白い煙を見た地点を図示しているが、橋本裕臣が白煙を認めた前記極楽野よりは約一キロメートル西方で雫石町の北方約七・五キロメートル付近であることが認められる。

(F) 前田利彦の検察官に対する昭和四六年八月一六日付供述調書

同人は雫石町一六地割黒沢川一七の一高源機械株式会社雫石営業所に勤務していたもの(当時三五才)であるが、要旨次のとおり述べている。即ち午後二時一寸過ぎ西側窓から西の方の上空を見たらピカピカ光る飛行機が二機飛んでいた。機体は見えなかつた。二機は少し離れていた。外の便所に行き小用をすませて東側にある出入口の前に来たところ「ダガアーン」という駒ヶ岳の爆発音より大きな音が聞こえた。空を見たら長山谷地上空付近と思われる空にパツと白い煙のようなものが出ていた。空中爆発かと思つた。白い煙のところから一五センチメートル位の飛行機が南の方に飛んで来たのが見えた。少し進んだと思つたら翼らしいものが右側に飛び左側にも機体の一部分らしいものが飛ぶのが見えた。その飛行機は煙など全然吐かず見ている方向に進んで来た。見ているうちにその飛行機の機体に両翼がついているのが見えた。まだ接触事故など判らなかつたので一機だと思つていたのにおかしいなと思つた。見ていた場所の右側に落ちて来た翼は営業所から三〇〇メートル離れた北東の林の陰に落ちた。南方を見たら飛行機が煙も吐かずそのまま南に進んでゆき、安庭橋付近の上空と思われるところで白い煙を出し、間もなく黒い煙を吐き高度を下げて東寄りに方向を変え大きな物体を落しながら山の陰に落ちた。なお同人は右調書において白い煙のようなものを見た位置を図示しているが、その地点は雫石町の市街地の中心部から北方に約一・五メートルの地点であるところが認められる。また盛岡地方検察庁検察事務官作成の昭和四六年八月一八日付写真撮影報告書によると前田利彦が落下するのを目撃した翼はF―86Fジエツト戦闘機の片翼であつたことが認められる。

(G) 中川幸夫の検察官に対する昭和四六年八月二六日付供述調書

同人は雫石町西山中学校二年生(当時一四才)であるが、要旨次のとおり述べている。即ち二時からのソフトボールの試合を講堂南側にある技術室の東側七、八メートル離れたところで見ていた。なんとなく講堂の上の方を振り向いたところ、南側屋根の中央の尖つたところの一寸北側の上の方に岩手山の方から来たと思われる飛行機が一機丁度講堂と平行になるような方向で雫石町の方に向つているようであつた。万年筆位の大きさで空は雲一つなく太陽でピカピカ白く光つて見えた。講堂南側真中の尖つた付近に来たと思つたころ、この飛行機の右側の上の方からピカピカ光るものが見え間もなく一緒になつたようになつて北から来た飛行機だけが見え、この飛行機が丁度講堂南側の技術室の真上に来たころ白い煙のようなものが飛行機のところからぱつと広がるように出た。その付近からピカピカ光るものがひらひらと沢山落ちて来た。よく見ていたらすぐ黒い煙を出した大きい飛行機の胴体のようなものが雫石町の東側にある七ツ森に寄つた方に落ちてゆき、真南の雫石町の方に飛行機の翼のような平らなものがくるくる回るようにして落ちてゆくのを見た。その方向の非常に高いところに落下傘が見え、これが大きい胴体のようなものが落ちて行つた方向に流れるように落ちてゆくのを見た。

なお同人は同調書において目撃位置を図示しているが、それによると西山小学校は雫石町の市街地のほぼ真北約四・五キロメートル付近にあり、講堂と技術室は南北に並んで建てられていることが認められる。

(二) 事故調査委員会が推定した接触地点

1 原審取調べの鑑定書(事故調査報告書を引用したもの、以下事故調査報告書という)および事故調査委員会の委員で同報告書を作成した原審証人山県昌夫、同荒木浩、同後藤安二、同井戸剛の各証言を総合すると、事故調査委員会が推定した本件全日空機と訓練機が接触した地点は、国鉄田沢湖線雫石駅の西方〇・四キロメートルから北へ三・三キロメートルの地点北緯三九度四三分東経一四〇度五八・四分を中心とする東西一キロメートル、南北一・五キロメートルの長円上空高度二八、〇〇〇フイート(約八、五〇〇メートル)で、その中心点はジエツトルートJ11Lの中心線から西方約四キロメートルの位置(原判決添付別紙第二図面点線で囲む円内)であることが認められる。

そこで右調査結果の当否について検討する。

(イ) 先づ右両機の接触状況につき考察してみるに、

(A) 司法警察員作成の検証調書、破片発見現場確認捜査報告書、墜落機体破片発見報告書F―86F機首部外板、右側消火板等発見見分報告書、実況見分調書七通、報告書二通、破片発見確認報告書、機体破片発見報告書、捜査報告書七通、全日空機破片発見報告書三通、発見報告書、全日空機昇隆舵タブの一部発見捜査報告書、F―86F部品発見報告書の各記載を総合すると、事故発生と同時に盛岡警察署では、機体、落下物の捜査に従事したところ、国鉄田沢湖線雫石駅西方約一、一五〇メートルの水田内にF―86Fの右主翼を除く胴体、左主翼、尾翼、発動機等の大部分を、同駅南東約七〇〇メートルの水田に落下傘を、雫石町二地割字小日谷地一四の四水田内に同機の右主脚を、同町八地割字拂川付近水田に同機の風防を、同町九地割字源太堂六七の三躑躅森幸平方車庫に同機の前脚を、同町二一地割字長畑五堀合定夫方北北西一五三メートルの畑地に同機の右主翼(フラツプ取付部上縁に黄緑ならびに緑色の塗料付着)、同町二二地割字七ツ森町有林内に同機の機首部右側消炎板を、同町御所野塩ヶ森地内に同機の右主翼上部付根を、盛岡市繋地内において繋字尾入一四―三藤平健次郎方自宅西脇の柿の木に同機の右主翼フラツプ内側および全日空機の破片を、同字尾入地内繋橋下流二〇〇メートル雫石川北岸にF―86F機首部右側外板の一部を、同橋北方一五〇メートル山林内に全日空機上部方向舵外板の一部(赤色塗料付着)を、同地内藤平清三郎所有畑地周辺にF―86F機首部ノズルギヤ室を、繋字尾入野九地割に全日空機の上部方向舵上部前縁を、繋字山根五六藤平勝雄方南方一〇〇メートル川原左岸に全日空機の左昇降舵破片を、同地内に全日空機垂直安定板の一部(赤色塗料付着)を、繋字尾入四一番地南方三五メートルの草原内にF―86Fランデイングライトを、繋五地割農業倉庫西方三〇〇メートルの山林内に全日空機の上部方向舵左側外板の一部(赤色塗料付着)を、雫石町地内において同町一五地割字下町五〇―三見晴食堂に食堂中央部の天井を破つて落下した全日空機の垂直尾翼の破片(トレーリングエツジ)を、同町九三簗場文司方西方一〇〇メートルの水田内に全日空機の上部方向舵作動器、同サーボ機器を、同町五地割御所野一六二細川広榮方西南一三〇メートルの水田に全日空機の破片を、同所御所野農業倉庫東北東一、〇〇〇メートルの水田中にF―86F機首部右側外板の一部を、西南五〇メートルの田圃に全日空機の水平尾翼左側部分を、同町二一地割長畑九七堀合義考方西方五六メートルの農道に全日空機の昇降舵タブの一部を、同町塩ヶ森北西麓に全日空機左水平安定板後縁補強部材を、塩ヶ森地内徳田正志方水田に全日空機の左水平尾翼後縁部(B七二七全日空機破片の発見場所確認報告書に右水平尾翼とあるは同人方を実況見分した調書の記載に照らし右は左水平尾翼の誤記と認める)の破片を、同町八地割字堂ヶ沢二〇山林内に全日空機の左側昇降舵先端を、同町塩ヶ森三四大豆畑に全日空機の左昇降舵バランスパネルを、同塩ヶ森地内国道四六号線南側山林に全日空機の垂直安定板右側部、上部方向舵作動器取付枠を、同所一五地割字下町九三西方一〇〇メートルの水田内に全日空機の上部方向舵の一部を、同町七ツ森地内に全日空機の方向舵の一部(赤色塗料付着)をそれぞれ発見したことが認められる。

検察官作成の捜査報告書(同年八月一六日付)F―86F右主脚からの全日空機機体一部取出し作業報告書(同月一二日付)、F―86Fエンジンスクリーン部並に全日空機垂直安定板見分報告(同月一三日付)、F―86F、全日空機破損状況報告(同月一七日付)の各記載によれば、他方盛岡地方検察庁検察官は全日空機の主要部分である胴体、主翼等は矢櫃川の東方に落下し、第二、第三エンジンが一の沢の下方に、垂直尾翼が前の沢の上方、前部胴体が同沢の下方、中央胴体が春木沢付近に、後部胴体が葛堀沢付近に、左中央翼が小妻神沢付近にそれぞれ落下散在し、F―86Fの本体は右主翼を除きほぼ原形のまま雫石町葛根田地内田圃に落下していたことを確認し、更に落下物の破損状況を詳細に調査した結果F―86Fにつき七ツ森地内に落下した(1)右主翼は胴体つけ根から五〇センチメートルのところで折損し、表面の日の丸部分に長さ約二・五ないし五五・五センチメートル、幅一・五ないし三センチメートルの擦過痕が七条あり、該部分の赤色塗料およびその下に施された銀メツキが削り取られていた。(2)雫石町第二地割水田に落下した右主脚は脚のつけ根の屈折部の穴に長さ三センチメートル、幅三・八センチメートルの金属性骨材一本および薄緑色の外板が穴に押し込まれた状態で折れて突き刺さつており、骨材は全日空機の水平尾翼の一部であつた。(3)計器は大半破損し、指針は判読不能の状況であつた。(4)葛根田地内田圃に本体と共に落下したエンジンスクリーン内側にはグリーンの色彩からみて全日空機の垂直安定板上端部のものと認められるハネカムの破片三個(マツチ箱ないしタバコ箱大)が押し込まれていた。(5)機首先端部は大破して原形なく、同部の赤色塗料を施した外板の一部が七ツ森地内で発見され、胴体右側面部の外板は左側面部に比し著しく破損しその大半は胴体から剥離して小破片となつていた。全日空機について(1)雫石町妻の神地内に落下した水平安定板は垂直安定板の一部に接合されたままで、右側部分はほぼ原形を止めているのに反し、左側部分は長さ約二メートル幅約八〇センチメートル大の破片を残しているのみで、水平安定板左側の残存部分の折損部位はF―86F右主脚のつけ根部に押し込まれていた骨材および外板と太さ色彩とも近似していた。(2)七ツ森地内に落下した水平安定板の左側先端部は長さ一・五メートル幅一・二五メートル大で、その最先端に赤色塗膜が若干付着し、昇降舵タブの一部は長さ三〇センチメートル幅一五センチメートル大で塗膜擦過痕の有無は不明であつた。(3)妻の神地内に落下した垂直安定板は上端部水平安定板との接合部分および下端部胴体のつけ根部分との接合部位をそれぞれもぎ取られていたが、同側面ならびに左側面には明瞭な擦過痕または塗膜の付着は認められなかつた。(4)妻の神地内に落下した第一エンジンカウリングの一部(左側エンジンのカバー)中央部付近に鮮赤色の塗膜が明瞭に付着していた。そしてこの捜査に当つた検察官は(1)F―86Fの右主翼がつけ根付近から折損し、のこぎり状に切断されて折損部に表われている骨材ならびに外板は下面から上面に、かつ後方から機首方向に曲つており、本体から相当離れた場所に落下していること、(2)同右主脚つけ根部分に全日空機の左側水平安定板の骨材および外板とみられる部分が突き刺さつていること、(3)全日空機の右側水平安定板は破損していないのに反し、左側は折損大破していること、(4)全日空機の主要部分が妻の神地内に落下しているのに反し、左側水平安定板の先端部および昇降舵タブの一部が七ツ森地内に落下していること、以上の四点から両機の衝突部位はF―86Fの右主翼つけ根付近と全日空機の水平安定板左側付近であると推定したことが認められる。

(B) 事故調査報告書ならびに前記証人山県昌夫、同荒木浩等の各供述によれば、昭和四六年八月三日付盛岡警察署よりの鑑定嘱託を受けていた事故調査委員会では、独自の立場から本件事故の調査に当り、各落下物の落下地点、その状況ならびに両機の接触状況につき調査した結果は次のとおりであつた。即ち全日空機の残がいは、原判決添付別紙第二図面<6>地点に垂直尾翼フイツテイングの一部、<7>地点に上部方向舵作動器、同サーボ機器、<9>地点に左水平安定板の先端部、<11>地点に左昇降舵バランスウエイトの一部、<16>地点に垂直尾翼の一部、<17>地点に上部方向舵作動器の取付枠の一部、<18>地点に上部方向舵の一部、<19>地点に左水平尾翼の一部、<20>地点に上部方向舵の一部、<22>地点に垂直尾翼の一部、<23>地点に上部方向舵の一部、<26>地点に左昇降舵の一部、<27>地点に垂直尾翼の大部分、<28>地点に胴体前部、<29>地点に右水平尾翼、<30>地点に胴体後部外板の一部、<31>地点に第一発動機、<32>地点に第二発動機、<33>地点に第三発動機、<34>地点に胴体後部、<35>地点に左主翼前縁スラツトの一部、<36>地点に垂直尾翼の一部、<37>地点に第一発動機カウリングの一部、<38>地点に胴体中央部、主翼中央部、第一発動機カウリングの一部がそれぞれ落下し、訓練機の残がいは同添付図面<1>地点に右主脚、<2>地点に胴体、左主翼、尾翼、発動機等の右主翼を除く大部分、<3>地点に風防、<4>地点に前脚、<8>地点に右主翼、<10>地点に右主翼内側前縁スラツトの一部、<14>地点に機首の消炎板、<16>地点に右主翼つけ根外板の一部、<21>地点に機首右側外板の一部、<24>地点に着陸灯の一部、<25>地点に機首のラジオ隔壁の一部がそれぞれ落下していた。(この模様は捜査当局の前記捜査結果と<38>の胴体中央部の位置が少しく相違しているほかはほぼ合致している)そしてその残がい散乱の範囲は東西約六キロメートル、南北約六キロメートルに及んでいたもので、更に右機材破片を詳細に調査した結果全日空機について(1)左水平尾翼は安定板ステーシヨン二一四付近上面外板上に赤色の線が機軸と四〇度ないし四三度の角度で前桁から後へ内側に向つて約六〇センチメートルの長さでついており、安定板ステーシヨン二一一付近の下面外板上に赤色の線が機軸と約四五度の角度で前桁後方四センチメートルのところから後へ内側に向つて六センチメートルにわたりついていた。安定板ステーシヨン二〇六付近の前縁に赤色塗膜状の付着物があり、安定板ステーシヨン一八九から二一四付近の上面外板上に機軸と約四〇度ないし四五度の角度で前記赤線と同方向に多くの擦傷があつた。安定板ステーシヨン一九〇付近で破断分離した翼端側の破片に訓練機の右主翼フラツプに使用されていたハネカム材と同種の細片が付着していた。安定板ステーシヨン一〇〇付近の後桁フランジは後方へ曲つていた。安定板ステーシヨン一〇〇から一八〇付近の構造は小破片となつており、これら小破片の大半には多くの接触痕があつた。(2)右水平尾翼は接触痕なく、ほぼ完全な形で左水平尾翼翼根とともに垂直尾翼から分離していた。(3)垂直尾翼は後桁の安定板ステーシヨン二三〇付近にある上部方向舵作動筒取付枠等の左側に接触痕があり後桁より後方の安定板ステーシヨン二二五より上の部分が破壊していた。この破壊した外板小破片に訓練機の機首と同色の赤色塗膜状の付着物があつた。右前桁の胴体との取付部付近の破断部は垂直尾翼が右へ倒れる方向に曲つていた。安定板ステーシヨン一〇〇付近の右側ストリンガにも同方向の局部挫屈があつた。水平尾翼との取付構造は、左水平尾翼に後曲げの力をかけた方向に著しく変形していた。左主翼、胴体にはいずれも接触痕跡はなく、発動機三基にも接触、異常燃焼と認められる痕跡はなかつた。計器等は、無線磁気指示器(RMI)について第一RMIの指示方位は一六〇度を示しており、自動方向探知器(ADF)と超短波全方向レンジ(VOR)の選択スイツチの第一スイツチはVOR位置にあつたが容易に動く状態であり、第二スイツチはADF位置にあつた。第二RMIの指示方位は二〇五度を示しており、ADFとVORの選択スイツチの第一スイツチは破損分離していて位置が不明で第二スイツチはADF位置とVOR位置の中間にあつたが第二スイツチは容易に動く状態であつた。コース表示器(CI)は第一CIの指示方位は一六〇度コース指針(コースカーソル)は一八〇度、コースカウンタは一七七度、方位指針(ヘデイングカーソル)は二〇五度を示しており、方位指針の選択つまみは破損していた。第二CIの指示方位は二〇五度、コースカーソルは一八〇度、コースカウンタは一八二度、ヘデイングカーソルは二〇五度を示しており、選択つまみは破損していた。ADFは第一ADFが二〇八キロヘルツ、第二ADFが二七〇キロヘルツ付近の周波数を示していた。なおこれらの周波数に近いNDBとしては二一〇キロヘルツの宮古NDBおよび二七八キロヘルツの松島NDBがある。超短波航行用受信機は、第一受信機は仙台VORの一一六・三〇メガヘルツを、第二受信機は松島タカンの一一四・三〇メガヘルツを示していた。超短波無線電話送受信機は、第一受信機は札幌管制区管制所または松島管制通信所の一三五・九メガヘルツを、第二受信機は航空路用社用無線通信所の一二九・七〇メガヘルツを示していた。オートパイロツトコントロールはモードセレクタスイツチはマニアルの位置に、ロールアンドピツチコントロールノブは不操作の位置に、方位セレクタスイツチおよび高度保持スイツチは断(オフ)の位置にあつた。なおこれらは電源が断(オフ)になるといずれも上記の位置になる。訓練機について、右主翼は胴体中央線からほぼ一メートルの位置および一・三メートルの位置で破断分離し、この付近の桁、外板等が破壊していた。胴体中心線から一・四メートル付近の構造は後から前に変形するとともに下から上に変形していた。胴体中心線から約一・四メートルの右主脚取付構造凹部には訓練機の右主脚カバーならびに全日空機の左水平屋翼の後桁前部外板、後桁上部後桁後部外板、後縁材上部、昇降舵桁上部および昇降舵外板の各細片が奥から順に入つていた。なお後縁材上部の細片は昇降舵ステーシヨン一三六から一四七付近に対応した部位のものであつた。胴体は左主翼および尾翼とほぼ一体となつていたが、機首特に底部の破損が著しかつた。機首底部の着陸灯、機首パネルの破片等に全日空機の垂直尾翼に使用されていた青色塗膜と同色の付着物があつた。前脚はその取付部が破壊し、胴体から分離していた。発動機は胴体内の定位置にあつて接触および異常燃焼したと認められる痕跡はなく、スクリーンには全日空機の尾翼フエアリングに使用されていたフアイバーグラスハネカム材と同種の細片が入つていた。圧縮機には全日空機の垂直尾翼に使用されていたクランブ用ゴムシールと同種の細片が入つていた。その他右主翼下の燃料タンク、左主翼等には接触痕跡は認められず、計器類は著しく破損していた。そして各付着物を調査した結果全日空機について、左水平尾翼安定板先端部破片のうち一個の赤色は訓練機の塗膜と認められ、他の一個の黒色板状物質は訓練機の燃料タンクおよびフラツプのハネカム構造の物質と異なるもの、左水平尾翼昇降舵破片一個の赤色は訓練機の塗膜、垂直尾翼後桁後部破片(安定板ステーシヨン二二五より上の部材)六個の赤色のうち二個は訓練機の塗膜、四個は判定不能、垂直尾翼背びれ外板破片一個の赤色は訓練機または自機の機体表面の塗膜と異る、第一発動機カウリング破片二個の橙色も右同様、胴体後部外板破片一個の橙色も右同様いずれも異る。左主翼第四スラツト破片一個の赤色は判定不能。訓練機につき右主翼内側スラツト破片一個の青色は判定不能、右主翼フラツプ一個の青色および左主翼翼下燃料タンクの赤色一個はいずれも自機の塗膜、胴体機首部五個の青色破片はうち二個は全日空機の塗膜一個は全日空機および自機表面の塗膜と異る、二個は判定不能、発動機補機部の青色一個は自機の塗膜であることが認められた。

右調査により明確となつた、全日空機の左水平尾翼の上面下面外板上に赤色の線がついており、前縁には訓練機の赤色塗膜が付着し、破断分離した翼端側の破片には訓練機の右主翼フラツプに使用されていたハネカム材と同様の細片が付着し、後桁フランジは後方に曲つており、その他安定板小破片の多数に接触痕があり、垂直尾翼安定板後桁にある上部方向舵作動筒取付枠等の左側に接触痕があり、上部は破壊し、その外板小破片に訓練機の機首と同色の赤色塗膜状の付着物があり、右前桁の胴体との取付部付近の破断部は垂直尾翼が右へ倒れる方向に曲つており、右側ストリンガにも同方向の局部挫屈があり、水平尾翼との取付構造は左水平尾翼に後曲げの力をかけた方向に著しく変形し、訓練機の破断分離した右主翼は桁、外板等が破壊し、胴体中心線から一・四メートル付近の構造は後から前に変形するとともに下から上に変形し、右主脚取付構造凹部には全日空機の左水平尾翼の後桁前部外板、後桁上部、後桁後部外板、後縁材上部、昇降舵上部および昇降舵外板の各細片が入つており、胴体は左主翼および尾翼とほぼ一体となつていたが、機首特に底部の破壊が著しく、機首底部の着陸灯、機首パネルの破片等に全日空機の垂直尾翼に使用されていた青色塗膜と同色の付着物があり、スクリーンに全日空機の尾翼フエアリングに使用されていたフアイバーグラスハネカム材の細片が入つており、圧縮機には全日空機の垂直尾翼に使用されていたクランプ用ゴムシールの細片が入つていた状況等から接触は、訓練機の右主翼後縁と全日空機の左水平尾翼の前縁からはじまり、この接触により訓練機の右主脚取付部付近の剛構造によつて全日空機の左水平尾翼の前桁、後桁、昇降舵等が順次破壊された。その後訓練機は機首を右に振り、その機首底部が全日空機の垂直尾翼上部左側に接触し、両機の接触部付近の構造が破壊されたと推定した。

そして右推定は接触部位において捜査当局の前記推定とほぼ合致していることが認められる。

(C) 原判決がこの点につき、その挙示する関係各証拠により、事故調査委員会の調査結果を基本として「最初に訓練機の右主翼フラツプステーシヨン二五付近後縁と全日空機の左水平尾翼安定板ステーシヨン二〇〇付近前縁とが接触した。この接触により訓練機の右主脚取付部付近の剛構造によつて全日空機の左水平尾翼安定板ステーシヨン一〇〇から一八〇の前桁、後桁、昇降舵等が順次破壊され、同時に訓練機の右主翼も右接触部分が破壊すると共に、その過程で訓練機は全日空機の左水平尾翼後桁の強部材を支点として機首を右に振り、機首部が全日空機の垂直尾翼上部安定板ステーシヨン二三〇付近の左側面と接触し、両機の右接触部付近の各構造が破壊され、且つ全日空機の垂直尾翼にねじれが生じた。全日空機は、右接触により左水平尾翼、垂直尾翼上部が順次破壊されたことにより、その直後右水平尾翼も破壊分離した。……訓練機は前記接触により右主翼および機首底部を破壊され且つ右主翼が分離」したと認定したことは前記各証拠を総合し、当裁判所もこれを正当として是認することができる。

(ロ) 接触に伴う破断分離の状況

本件両機の右接触状況と残がいの落下散在した前記状況を併せ考察すると、全日空機については、その本体部分即ち左水平尾翼および垂直尾翼の小破片を除く大部分が雫石駅から東へ二キロメートルから三・五キロメートル、南へ三・五キロメートルから五キロメートルの範囲に散乱し、訓練機については、胴体の大部分、左主翼および尾翼が雫石駅から西へ約一キロメートルの地点に落下しているのに対し、両機の接触部位の機材、部品、破片はこれと離れて全日空機の左水平尾翼および垂直尾翼の機材、破片ならびに訓練機の右主翼つけ根、胴体前部の小破片は雫石駅から東へ約四・六キロメートル、西へ約〇・五キロメートルの東西の長さ約五・一キロメートル、幅約一キロメートルの範囲に列をなして落下し、翼つけ根から破断分離した訓練機の右主翼は雫石駅から東へ約一・三キロメートルの地点に落下している事実に照らし全日空機の接触部の機材破片である原判決添付別紙第二図面<6>地点の垂直尾翼フイツテイングの一部、<7>地点の上部方向舵作動器、同サーボ機器、<9>地点の左水平安定板の先端部、<11>地点の上部方向舵の一部、<12>地点の左水平安定板後縁材の一部、<13>地点の左昇降舵バランスウエイトの一部、<16>地点の垂直尾翼の一部、<17>地点の上部方向舵作動器の取付枠の一部、<18>地点の上部方向舵の一部、<19>地点の左水平尾翼の一部、<20>地点の上部方向舵の一部、<22>地点の垂直尾翼の一部、<23>地点の上部方向舵の一部、<26>地点の左昇降の舵一部ならびに訓練機の接触部の機材破片である<10>地点の右主翼内側前縁スラツトの一部、<14>地点の機首の消炎板、<15>地点の右主翼つけ根外板の一部、<21>地点の機首右側外板の一部、<24>地点の着陸灯の一部、<25>地点の機首のラジオ隔壁の一部はいずれも本件接触とほぼ同時位にそれぞれの機体から破断分離したものと認定するに十分である。殊に全日空機の垂直尾翼フイツテイングの一部(<6>地点)、上部方向舵作動器、サーボ機器(<7>地点)はこの取付枠が<17>地点に、そのすぐ近くの<16>地点に垂直安定板のしかもその右側部が落下しかつ垂直尾翼の大部分がずつと南にはずれた<27>地点に落下している事実に照らし右サーボ機器等は接触とほぼ同時位に破断分離したものであることは確実と認められる。またこのことは前記目撃者の目撃状況からしても裏付けられる。即ち前掲目撃者の各供述記載を総合すると、両機は接触と同時に白い煙を吐き、大和田克紀、今野利明、中川幸夫はその白煙の中にピカピカ光る飛行機の破片のようなものが多数落下している様子を目撃しているのである。

(ハ) サーボ機器の軌跡計算

前記証人山県昌夫、同荒木浩、同後藤安二、同井戸剛の各供述を総合すると、事故調査委員会が冒頭の接触地点を推定するに至つた経過の内容は「接触によつて直接破壊分離した全日空機の尾翼構造部材の破片について落下軌跡の計算を行つて推定した。これら落下物の初期条件である初期速度の方向、大きさおよび高度については全日空機のフライト・データ・レコーダに記録されていた値を用い、落下中の風向、風速および温度については気象庁の推定値を用いた。計算に用いた破片は全日空機の上部方向舵のサーボ機器で、これは接触時に分離したためその初期条件の設定が比較的容易なものであり、かつその形状等からして落下中の不規則な運動を起こすことが少なく、その軌跡計算が比較的正確に行うことができるものである。また全日空機の左水平安定板の後縁材の一部、左昇降舵のバランスウエイトの一部および上部方向舵のサーボ機器付近のフイツテイングの破片についても参考のため計算を行つて上記結果の確認を行つた。」というものである。

(A) サーボ機器選択の合理性

事故調査委員会が初期条件の設定が比較的容易なものとしてサーボ機器を軌跡計算の資料に取上げたことは、右機器が本件接触とほぼ同時位に破断分離したと認められる事実に照らし合理的であるということができる。領置にかかる右サーボ機器(当審昭和五〇年押第五八号符号二〇)は別紙添付略図面記載のとおり本体部分は縦一七・七センチメートル、横一八・七センチメートル、高さ一二・五センチメートル、全部の重量七・三キログラムのもので、平板でもなく極端に長方形でもなくどう回転しても同じような面積を作り空気力があまり変らず、そのうえ或る程度の重量を持つており「その形状等からして落下中の不規則な運動を起こすことが少ない」と判断した右委員会の判断も首肯できる。

(B) 初期条件の合理性

原審証人喜多規之の供述によれば、同人は日本航空技術課に所属し、フライト・データ・レコーダ記録の解析作業に長年経験を有するもので、本件フライト・データ・レコーダの記録装置、記録状態等に解析に影響を及ぼすような異常はなかつたことを確認しており、その記録値の読み取り自体には精密慎重に従事したものであることが明らかで、これによると、全日空機は、接触時には高度二八、〇〇〇フイート(約八、五〇〇メートル)、真対気速度四八七ノツト(マツハ約〇・七九=時速約九〇二キロメートル)、機首方位一八九ないし一九〇度で水平定常飛行を続けていたことが認められる。

次に事故調査委員会の調査による盛岡市山王町七―六〇所在盛岡地方気象台、花巻市葛第三地割一八三―一所在盛岡気象台花巻空港出張所、岩手県雫石町三六地割字柿木八八―五所在盛岡地方気象台雫石気象通報所における昭和四六年七月三〇日の気象観測結果は、次のとおりである。

観測所

時刻

気温

風向

風速

雲量

雲高

天気

視程

盛岡地方気象台

12時

30.3℃

西

4.2m/s

0+

1000m

快晴

40km

15

32.3

西

5.0

1

1000

快晴

30

花巻空港出張所

12

30

190°

2.6

2

2500ft

30

13

31

240

3.7

3

2500

35

14

32

230

3.2

2

3000

40

15

32

260

3.2

2

2500

40

雫石気象通報所

12

29

南西

3.5

×

×

×

×

15

31

西南西

3.5

1

1500m

快晴

50

(注) ×印は観測していないので不明の意

そして気象庁の推定による昭和四六年七月三〇日一四時頃における雫石町付近における風向、風速および気温の推定値は、次のとおりである。

高度

風向

風速

気温

ft

°

kts

1,000

210

10

23

2,000

200

10

22

3,000

220

10

21

4,000

240

10

19

5,000

280

10

19

6,000

310

10

17

7,000

350

10

15

8,000

340

10

13

9,000

310

10

13

10,000

290

15

12

11,000

290

15

10

12,000

290

15

9

13,000

290

20

8

14,000

280

20

7

15,000

280

20

5

16,000

290

20

3

17,000

290

20

1

18,000

300

20

0

19,000

300

20

-2

20,000

300

20

-4

21,000

300

20

-6

22,000

300

25

-7

23,000

300

25

-8

24,000

290

25

-10

25,000

290

30

-12

26,000

290

30

-14

27,000

280

35

-15

28,000

280

40

-17

29,000

280

40

-20

事故調査委員会がサーボ機器の「初期速度の方向、大きさおよび高度については全日空機のフライト・データ・レコーダに記録されていた値を用い、落下中の風向、風速および温度については気象庁の推定値を用いた。」としていることは科学的資料に基づく妥当な方法であつたということができる。

尤も原判決は、サーボ機器は全日空機の垂直尾翼の内部桁材にボルトで固定されており、本件接触が訓練機の右主翼つけ根付近と全日空機の左水平安定板先端部付近が最初に接触し、次いで訓練機が機首を右に振つてその機首底部が全日空機垂直尾翼上部安定板左側面部と接触し、両機の接触部分の構造が破壊されるに至つたのであるから、サーボ機器は右の第二次接触により当該部分が破壊された際にこれを伴つて影響を受けたものであることは明らかであるが、これと同時ないしその直後に右サーボ機器も機体から分離放出されたものであるかどうかについては疑問があるとしているけれども、地上目撃者は前記のとおり両機が重なつて白煙を上げたときその白煙の中に機材破片の飛散している状況を目撃しており、これは接触と機材破片の分離が殆んど同時であつたと認められること、全日空機の接触部にある左水平安定板、垂直尾翼の機材、破片は前記のとおり雫石駅の東側地区に限定されて西から東に向つて細長く列をなして地上に落下散在し、その中には上部方向舵の一部が<11><18><20><23>の各地点に、上部方向舵作動器取付枠の一部が<17>地点に、垂直尾翼の一部が<16><22>の各地点に、左水平安定板の先端部(<9>地点)、左水平安定板後縁材の一部(<12>地点)、左昇降舵バランスウエイトの一部(<13>地点)、左水平尾翼の一部(<19>地点)、左昇降舵の一部(<26>地点)とともに交々入りまじつており、<7>地点の本件サーボ機器もその中にあつて<6>地点の垂直尾翼フイツテイングの一部とともに落下列の頭初の位置(西端)にかつ垂直尾翼の大部分とは遠く離れて落下している状況に照らせば、右接触部位の機材破片の分離は原判決のいう一次二次の時間的間隔の区別はなく接触と殆んど同時位に分離飛散したものと認定するのが相当である。従つて原審証人荒木浩が、初期条件としてサーボ機器の分離を接触後四・五秒までとし接触〇秒から四秒までの速度、方向および高度の平均値を使用して軌跡計算をしたとしていることは、少しく慎重に過ぎたきらいはあるが、必ずしも不合理なものではない。

(C) まとめ

これを要するに事故調査委員会が採用した接触地点推定の資料とその推定の経過には合理性があり、科学的にも非難さるべき点は見当らない。

原審記録中のBOAC機の航空機事故調査報告書の記載によると、落下軌跡計算は単に落下物の機体分離時期の推定に利用され接触地点を推定するには適さないものの如くであるが、BOAC機の航空機事故は、航空機が事故現場上空で突然異常に激しい乱気流に巻き込まれ空中分解した事故であつて、右軌跡計算により求める必要があつたのは接触地点ではなく、機体分離時期であつたことからその軌跡計算が行われたものであつて、本件とは事案を異にするものであるから、右証拠は前記推定の合理性を否定するものではない。

また推定誤差の範囲についても、前記証人山県昌夫、同荒木浩、同井戸剛の各供述によると、軌跡計算に当り若干の誤差は免れないので、英国で行つている軌跡計算の公式の誤差の二倍をとつて前記のとおり中心点の東西一キロメートル、南北一・五キロメートルの長円上空高度二八、〇〇〇フイートとしたもので、更に右長円の範囲に五〇〇メートルを加えればその正確性は一〇〇パーセントに近いものになることが認められる。高々度における高速の航空機の予想もしない接触という事故の性質に鑑みれば、接触地点の一点を確定することは固より困難なことであり、これを科学的に論証する基礎において前記のとおり合理性が認められる限り接触地点を、考えうる誤差の範囲内で右のとおり推定することは正確性を確保する所以でもあり、已むをえないこととして許されてよい。

(ニ) 推定接触地点と目撃証言

右接触地点を地上目撃者の前記各供述と比較検討してみるに(A)橋本裕臣が目撃した両機の接触地点は、同人が司法警察員と共に焼砂に登頂して指示したところによると雫石町の市街地の北方約五キロメートル付近で、右は前記推定接触長円の北端が右市街地の北方約四キロメートルに位置していることとほぼ合致している。(B)田口美由喜の目撃では、岩手山の東の方から南下して来た飛行機がお月さんの下まで来たとき接触したというのであり、その方向は雫石町の方向に当ることが認められるに過ぎないが、方向としては矛盾するものではない。(C)大和田克紀の目撃では南進機と北進機が雫石町の真上まで来なかつた頃であり(D)小玉均の目撃では、接触地点は雫石町の上空あたりであることが認められるので、右両名の目撃も前記推定接触地点に近い。(E)今野利明の目撃では、接触地点は雫石町の市街地の真北で約七・五キロメートル北方付近であるというのであるから、右推定接触地点よりは少し北にはずれているが、それが雫石町の真北の方向である点は一致している。(F)前田利彦の目撃では、接触地点は雫石町の市街地の中心部から北方に約一・五キロメートル付近であるというのであり、推定接触長円の南端が右市街地の北方約二・五キロメートル余であることと近似している。(G)中川幸夫は技術室の真上あたりで両機が接触したのを目撃しており、西山中学校は雫石町の市街地のほぼ真北約四・五キロメートル付近にあるのであるから、同人の目撃も前記推定接触地点とほぼ合致している。この点について原判決は、同人の目撃方向は右推定接触地点とほぼ反対の方向であるとしているが、前記証人山県昌夫、同井戸剛の各供述によつても中川幸夫の目撃状況は右に述べたとおりであることが認められるので、原判決の右判断は首肯できない。(H)なお前記荒木治の供述によれば、捜査当局が当時右各目撃者の証言を総合検討して接触地点を推定していたところによると右推定接触地点の中心点より西方に一・五キロメートル、北方に一・八キロメートル付近であつたことが認められる。

これを要するに事故調査委員会が推定した接触地点は、地上目撃者の目撃した接触地点とおおむね合致しそれ程矛盾するものではないことが明らかである。

(ホ) フライト・データ・レコーダ記録値による推定接触地点

前記証人喜多規之の供述によれば、全日空機のフライト・データ・レコーダの記録値を解析した結果離陸後一、八〇〇秒の時点で垂直加速度や高度等の各記録値の打刻が約三秒間飛んでいるところがあり、その打刻のところまでは正常な飛行状態を示していたが、その次の瞬間からその記録値がいずれも正常な状態でない記録を示しており、打刻の飛んだ垂直加速度の記録値の次に一・一Gを示している時点が接触時(接触位置)と判断されたもので、その位置は北緯三九度四四分、東経約一四〇度五九分であつたことが認められる。これを前記推定接触地点の中心点北緯三九度四三分東経一四〇度五八・四分は比較すると両者は殆んど合致しており、前者に後者の中心点から北東約二キロメートルであることが認められるので、この点は事故調査委員会の推定接触地点の正確性を一層高めるものということができる。

(ヘ) 防衛庁の調査による推定接触地点

前記証人山県昌夫、同井戸剛の各供述に「F―86F空中接触事故調査について」と題する書面の記載を総合すると、防衛庁航空幕僚監部では、独自の立場で本件フライト・データ・レコーダの解析、軌跡計算等科学的方法を用い本件事故の原因等を調査し、その結果作成した航跡図による推定接触地点は、盛岡市の市街地中心部から西方約一〇マイルの位置にあり、事故調査委員会の推定接触地点と近似していることが明らかである。原判決はこの点につき、右各証人が「事故調査委員会では調査の途中に防衛庁での調査担当者から調査の概要を聴取した」「事故調査委員会が調査の中間に懇談会形式で防衛庁の調査結果を聞き、防衛庁の落下軌跡の計算上初期条件について両者でやりとりがあつた結果防衛庁の方で計算過程に誤りがあつた旨了解したので、接触地点はほぼ同じになつた」旨各供述している点を捉え、両者の接触地点が結果とし一致することは寧ろ当然であるとして調査結果の信憑性を否定しているが、その道の学者、専門家がそれぞれ独自の立場で調査を試みる過程において相互にその方法につき討論、検討を加え、誤ちのあつた点については反省をしながら調査を進めるということは、科学者の謙虚な態度として非難さるべきことではなく、寧ろその謙虚さがあつてこそ正しい結果を招来することができるのであるから、本件において両者の調査結果が合致したことは調査の正確性を補強することにはなつても、それを否定するものと即断することはできない。また原判決は防衛庁が如何なる資料を基礎とし、如何なる方法で接触地点を判定したのか明らかでないからその正確性を判断することができないとしているが、それならばその点を裁判所として取調べるべきであつたと考える。事故調査委員会が防衛庁の専門家からフライト・データ・レコーダの解析、軌跡計算等につき調査の概要を聞き相互に討論も行つていることは明らかなことであるから防衛庁の調査も資料に基づく専門家の科学的調査検討が十分に行われていたことは推察するに難くない。

(ト) むすび

当裁判所は以上(イ)ないし(ヘ)認定の事実を総合して本件両機の接触地点は事故調査委員会が推定した前記接触地点と認めるのが相当であると判断する。

2 反証等についての検討

(1) 被告人隈の供述について

被告人隈が松島派遣隊長宛に報告した昭和四六年七月二日三〇日付供述書によると、その「場所」欄には「盛岡西方約五マイル三、六〇度、七六NM、FROM・JNT」と記載されている。同被告人の原審公判廷における供述によると、右の高度を落してゆくとき破片が落ちてゆく場所が丁度そのあたりであつたのでその地点を帰隊後航空図で計つて書いたもので、次の捜索のことを考え、そのために落ちた証拠のあるところを知らせるのが自分の役目であると考えたことによるものであることが認められるので、本件の接触地点とは係りがない。次に同被告人が接触事故直後松島飛行場管制所(以下松島タワーと略称)と交信した記録(事故調査報告書添付資料二)によると、一四時二分五八秒、教官機「……ライラツクチヤーリー2、民間機727と衝突……墜落しました……」同三分三九秒「……727それより南の方です。……盛岡の西の一〇マイルの山中あたりがライラツクチヤーリー2、……それから盛岡の南の方にポジシヨンはよくわかりませんでしたが727だと思いますが落ちました。」一四時二三分五七秒、松島タワー「えー、情報をもう一度確認いたします。盛岡の一〇マイル、ウエストでホールデイング、事故機はやはりその辺で事故に遭遇したのでせうか。」教官機「そうです。高度は二七、〇〇〇ぐらい、二七、〇〇〇か八、〇〇〇ぐらいです。」松島タワー「はい、了解しました。えー、相手の飛行機は727に間違いありませんか。」教官機「727だと思います。マークがよく見えませんでした。」一四時二九分二六秒、松島タワー「えーと、もう一度情報を確認したいのですが、その瞬間には火の爆発音とか、それから火を吹いているような状況を確認されていますか。」教官機「えーと、ぶつかつた瞬間はちよつと目を離して見えませんでした。それから86の方はトツプだけが落ちて行つたような感じです。あとばらばらになつたようです。それから727はそのまま高度を下げて行きましたが途中で見失いました。86の方を見てましたので……」「ぶつかつた瞬間には爆発してないようだつたです。白いのを引きながら落ちて行きましたが、あとでそのまま激突したところはちょっと今見当りません。」と交信していることが認められる。これによると被告人隈は、盛岡の西一〇マイル、高度二七、〇〇〇か八、〇〇〇のところを接触事故の発生した位置として報告していることが明らかである。原判決は、被告人隈は「右交信の時点では市川機の落下して行つたと思われる位置の上空で旋回しつつ特に衝突位置と落下位置とを意識して区別せず且つ大体の距離関係を知らせるべく交信していたものと認められ、厳密な衝突位置を報告したものとまでは認定することができない。」としているが、同被告人は市川機の落下位置と、両機の衝突位置、その高度、接触の状況について詳しく交信しており、同被告人自身原審公判廷において「当時の認識としては盛岡の一〇マイル西方において衝突事故が発生したと思つていた」旨述べているのであるから、同被告人が落下位置と衝突位置を意識して区別しなかつたという事実はこれを認めるに由ないことである。また同被告人は検察官に対する昭和四六年八月四日付供述調書において「降下した時地形を見て雫石川の上流付近で流れをはさんで北と南から山がせまつている場所付近が二番機と727機の墜落地点であることが判つた。」「破片の落ちて行つた地点から考えると二番機と旅客機が接触した位置は、航空路の内側だつたかもしれないが、航空路の内側か外側か私には判らない。」旨、同月一五日供述調書では「事故発生後高度を下げて地形を見た時の状況から判断すると、事故発生時点ではすでに制限空域内に入つていたのではないかと思われる。」旨述べているのであるから、交信時における同被告人の認識した接触位置というものは、原判決が指摘するとおり厳密な意味での位置を報告したものではなかつたにしても、盛岡の西方一〇マイルというおおよその位置であつたことだけは十分に窺われる。してみると被告人隈の認識した接触位置は前記認定の推定接触地点とほぼ合致することはあつても、決して矛盾するものではないことが明らかである。

(2) 海法鑑定書について

所論は同鑑定書を根拠にして独自の接触地点を主張するものであるが、その理由のないことは以下述べるとおりである。

(A) 同鑑定書は、カラー・データ・フイルムの解析結果および全日空機のヘデイング・カーソルが仙台VORから太子VORへの方向である二〇五度を示していたことなどから、同機は函館NDBから仙台VORに向つて飛行していたと考えられることを理由とし、本件接触は、確率的にみて、原判決添付別紙第二図面「A」内で起つたと推定されるとしている。しかしカラー・データ・フイルムの解析結果およびヘデイング・カーソルが二〇五度を示していたことから、全日空機が函館NDBから仙台VORに向う線上を飛行していたと結論づけることが適切でないことは、後記全日空機の航跡の項で説示するとおりで、従つて同鑑定書が接触地点を「A」内と推定する根拠は薄弱である。

(B) 同鑑定書は、各目撃者の供述を参照し、接触地点を前記図面「C」および「D」の交差する範囲内と推定しているが、前掲各目撃者の目撃した接触地点は先に検討したとおり事故調査委員会の推定接触地点とほぼ合致しているのであるから「C」および「D」の交差範囲の推定には根拠が乏しい。

(C) 同鑑定書は最終的に接触後の全日空機の降下方向、残がい分布状況、落下傘着地点等から接触地点を前記図面「E」の範囲内と推定しているが、右は焼砂における目撃者の目撃状況に明らかに反しているばかりでなく、同目撃者は自衛隊機が目撃地点より東方上空を北進中右に旋回したことを一様に認め、被告人隈も右同様事故直前に約一八〇度の右旋回を行つた旨供述しており、前記証人井戸剛の証言によればその旋回半径はほぼ四・五マイルであるから、接触当時自衛隊機は右「E」の範囲の更に東方を旋回していたものと認めざるをえない。また被告人市川が使用した落下傘の着地点(<5>地点)とその降下経路からの接触地点の推定については、地上目撃者である大久保咲枝は検察官に対する昭和四六年八月六日付供述調書において「役場玄関で爆発音を聞き頭上を見たら、後から二〇センチメートル位に見える飛行機が煙を吐いて東南方向に飛んで行つた。バラバラになつたものが落ち出し、真上をジエツト機がきりもみ状態になつて落ちて来た。そのうちその飛行機付近から落下傘が開いた。」旨述べ、雫石町長山八区西山農協ビル工事現場で目撃した三本正道、前田豊一、照井武雄の検察官に対する同年八月一六日付各供述調書によると、同人等はいずれも爆発音を聞き本件事故を知つたのであるが、高前田上空付近を飛行機がきりもみしながら落ちてゆくとき落下傘を目撃していることが認められる。被告人市川の検察官に対する供述調書によると、同被告人は接触による衝撃を感じた後機体の横転を正そうと操縦桿を操作したが、操作不能の状態にあつたため操作をあきらめ、機体が錐もみ状態に入つて墜落中緊急脱出の射出レバーを引こうとしたが反引力が大きく手が届かなかつた。しかし風防が離脱しているのに気がついたので、安全ベルトをはずすと身体が自然に機外に放出された。そして落下傘を開傘させ前記<5>地点の水田に降下したというのであるから、同被告人はどの地点で機体から脱出し、どの地点で落下傘を開傘させたかは不明であり、ただ脱出、開傘が接触直後ではなく、接触から開傘までにはいくばくかの時間的経過があつたことだけでは確かである。そしてこの状況は地上目撃者の前記目撃状況ともよく符合している。事故調査委員会が落下傘の落下軌跡を参考にしなかつた理由として前記証人山県昌夫、同井戸剛は「落下傘の場合機体落下物と比較して初期条件が全く不明であり、特に本件の場合接触後錐もみ状態となつていつどの方向に開傘したか判らない状態であるから接触地点等の推定には適さない。」としたことは前記状況に照らし十分に首肯できる。

原判決は前記認定の推定接触地点では「当時の西風の下で被告人市川の落下傘は、少くとも右<5>の地点よりは東側の位置に着地していた可能性が大きいのではないかとの疑念を払拭することができない」としているけれども、それは接触と同時に脱出、開傘したことを前提とした議論であつて採用できない。

これを要するに海法鑑定書をもつて本件接触地点に対する当裁判所の前記認定を覆すことはできない。この点の所論は採るを得ない。

二  全日空機の航跡について

原判決がこの点につき、前節の接触地点の認定との相関関係において、函館NDB上空通過後同所から松島NDBに向うジエツトルートJ11Lをその管制上の保護空域内西側において南下進行していたと幅広い認定をしていることは前記のとおりで、これに対する当裁判所の認定は以下述べるとおりで右認定と相違するけれどもこれが判決に影響を及ぼさないことも前同様である。

(一) 千歳飛行場離陸後函館NDB上空通過まで

原判決挙示の関係各証拠即ち事故調査報告書、原審証人井口清、同奏征治の各供述、内村信行の盛岡地方検察庁に対する回答書、銅幹夫の司法警察員に対する供述調書、石田奨の検察官に対する供述調書二通、保阪初男の検察官に対する供述調書および全日空五八便との交信テープ二巻(当審昭和五〇年押第五八号符号五の一、二)、同飜訳文二部を総合すると、この点につき原判決が認定するところは、当裁判所もこれを是認することができる。即ち「全日空機は、昭和四六年七月三〇日本件事故に遭遇するに先立ち、東京国際空港から千歳飛行場へ全日空五七便機として飛行し、右飛行における東京国際空港の離陸予定時刻は午前一〇時五〇分であつたが、操縦席窓の防水装置の機能点検(点検の結果異常はなかつた)等のため、予定より遅れて午前一一時二九分同空港を離陸し、更に航空交通管制上の事由により遅延して同日午後零時四四分に千歳飛行場に着陸した。次いで同機は予定に従い全日空五八便機として千歳飛行場から東京国際空港に向けて飛行することとなり、右飛行につき運輸省千歳空港事務所に提出して管制承認を受けた飛行計画書(フライト・プラン)によると、同日午後一時一五分に出発予定、計器飛行方式による飛行方法により、巡航速度は四九〇ノツト、巡航高は二八、〇〇〇フイート(約八、五一〇メートル)、予定経路はジエツトルートJ10L、函館NDB、ジエツト度ルートJ11L、松島NDB、ジエツトルートJ30L、太子NDB、ジエツトルートJ25L、佐倉NDB及び木更津NDB経由東京国際空港到着、到着予定時刻は同日午後二時三五分というものであつた。ところが同機が六七便機として到着した時刻が前記のように既に遅延していたこと、及び千歳飛行場より出発する先行便との間の管制間隔保持の必要等の事由により、右出発予定時刻より遅れて、同日午後一時二五分同飛行場駐機場から地上滑走を開始(ランプアウト)し、同一時三三分飛行場一八L滑走路を離陸した。

同飛行場を離陸した全日空機は、千歳ターミナル管制所のレーダー管制を受けて同一時四一分函館NDB(無指向性無線標識施設)の北東二八マイル(約五二キロメートル)、高度約一七、〇〇〇フイート(約五、一七〇メートル)の位置まで飛行し、同管制所から以後は札幌管制区管制所に周波数一三五・九メガヘルツで連絡するよう指示された。

その後、同機は、同一時四六分函館NDB上空を高度二二、〇〇〇フイート(約六、六九〇メートル)で通過し、同上空でその位置通報を行うとともに、次の位置通報点である松島NDB上空を同二時一一分に通過する予定である旨の通報をした。

全日空機は、函館NDBを通過した後、同一時五〇分に高度二八、〇〇〇フイート(約八、五〇〇メートル)に到達した旨札幌管制区管制所に通報を行つた。

(二) 事故調査委員会が推定した、右上空通過後接触までの航跡と当裁判所の認定

事故調査報告書によると、その後全日空機は、訓練機と接触するに至るまで、指示対気速度は二五四ノツトから漸次増加し、離陸後二四分に約三一〇ノツトに達し、以後三一〇ノツトないし三一八ノツトで推移(真対気速度四八七ノツト((マツハ約〇・七九、時速約九〇二キロメートル))し、機首磁方位は一八九度ないし一九〇度、垂直加速度はほぼ一Gで、水平定常飛行を続け、その航跡は同報告書添付第一〇図に示すとおり、ジエツトルートJ11Lに沿つて南下し、前記接触地点に至つたことが認められる。

前記証人喜多規之の証言によれば、右は同人が正常に作動していた本件のフライト・データ・レコーダの記録値を、風速、温度等を考慮しながら解析し、一〇秒ごとの航跡を求め、それを三〇秒ごとに地図上にプロツトしてえた航跡であつたことが明らかである。

当裁判所は、右認定の事実ならびに前記認定の接触地点を総合考慮し、函館NDB通過後の全日空機の航跡は、事故調査報告書のとおり認定するのが相当であると判断する。そしてこのことは以下述べる諸点からも十分に裏付けられる。即ち

(A) 本件全日空機川西三郎機長は函館NDB上空を高度二二、〇〇〇フイート(約六、六九〇メートル)で通過し、同上空でその位置通報を行うとともに次の位置通報点である松島NDB上空を午後二時一一分に通過する予定である旨通報していることは前述のとおりであるから、同機長が函館上空通過後ジエツトルートJ11Lに沿つて南下飛行する意思であつたことは十分に推察される。またこのことは同機長が事故当時所持していた航空路図(当審昭和五〇年押第五八号符号三八および航空路図メモ(同符号三九)にジエツトルートJ11Lの位置および方位のみが記載されていることからも裏付けられる。

(B) 小野寺康充、椋本恵士、田中益夫の検察官に対する各供述調書、運輸省札幌航空交通管制部長作成の捜査関係事項照会回答書、全日空会社の昭和四六年八月一二日付盛岡地方検察庁に対する捜査関係事項照会回答書の各記載によると、事故当日午前八時五〇分より一〇時まで小野寺教官機と椋本訓練生が盛岡訓練空域で機動隊形の飛行訓練をしていた際千歳飛行場発東京国際空港行き全日空五〇便機がジエツトルートJ11Lに沿つて南下しているのに遭遇しており、そのときの同機の操縦者は本件の川西機長と辻和彦副操縦士であつたことが認められるのであるから、他に特段の事情でもない限り川西機長、辻副操縦士の両名は本件五八便機においても午前中操縦した五〇便機と同じコースを水平定常飛行をして南下していたものと推察するのが相当であり、記録を精査しても、当時気象その他において午前と午後で状況に著変があつたとは認め難い。

(C) 前記「F―86F空中接触事故調査について」の記載によれば、防衛庁航空幕僚監部が、本件事故後全日空機のフライト・データ・レコーダの記録値の解析、軌跡計算、被告人等の供述を参考にして作成した全日空機の航跡もほぼ同じ航跡を推定している。

(D) 前記各目撃者の供述を検討してみても、橋本裕臣は「南に向つて飛行機が飛んでいるのが見えた。……目で追つていたところ……駒木野部落寄りの上空で北進して来た小型機が右に旋回したなと思つたら白い煙を吐いた」旨、大和田克紀は「雫石町の方に向つて左側の上空を……飛行機が一機南の方に向つて飛んでいるのを見た。同じ高さを真直ぐに南に向つて進んでいるように見えた。雫石町の市街地の上空か少し東の方にはずれる感じの方向に飛んでいるように見えた。」旨、小玉均は「……飛行機が一機……南の方に飛んでいるのが見えた、雫石町の上空あたりに来たとき急に白い煙をはいて右の方に静かにだんだん低くなつて行つた。」旨、中川幸夫は「……岩手山の方から来たと思われる飛行機が一機講堂と平行になるような方向で雫石町の方に向つているようであつた。」旨それぞれ述べており、右各目撃者の目撃した全日空機の航跡も前記認定の航跡とほぼ合致していることが認められる。

(三) 原判決は「フライト・データ・レコーダの読み取り値を地図上に位置せしめるためには、各地点の風向、風速、気温が重大な要素となることが明らかであるところ、本件においてこの点につきどのような資料が用いられたのかは必ずしも明白ではない。」「少くとも全日空機が高度二八、〇〇〇フィートに達した時点(同日午後一時五〇分)以後については、全く同一の風向、風速、温度の資料を使用して解析していることとなる。そしてそのような方法であつてもなおこれによつて得た航跡の正確性が十分担保し得るものであるとの証明は存しない。……」として本件フライト・データ・レコーダの解析を基本とした前記認定の全日空機の航跡ならびに接触地点の推定は「直ちにこれを正確なものとして採用するわけにはいかない。」と説示している。

しかし乍ら原審証人後藤安二は、「雫石上空付近のデータを基礎とし、他の地点は当日の天気図から推測した。気象データを分析したのは誰かわからないが専門家である。」旨供述し公判廷における供述で「天気図のほか札幌の気象記録もとつたはずである。それから風向、風速、温度の一連を出させた。それは喜多に出させて自分がそれを承認した。前に専門家と言つたのは喜多のことである。」旨供述している。他方前記喜多証人は「風や温度の資料は後藤委員から受け取つた。『一か所だけでなく四ヵ所か五か所位の気象データを基にして総合的に出してあるから、この点は心配する必要はない。これを使つて計算すれば良い』と指示された。」「与えられた気象データは一つであり、何か所かのデータをまとめて一つにしたものと思う。何か所であるかは自分にはわからない。」「全日空機が高度二八、〇〇〇フイートになつてからあとの数値は一つであつた。」旨供述しているのであつて、両者の供述に少しく齟齬のあることは原判決指摘のとおりであるが、本件フライト・データ・レコーダ記録の解析を担当した右両名が、気象データに基づき当時の風向、風速、気温を考慮して解析に従事したものであることは明白である。また高度二八、〇〇〇フイートに達してから以後の数値が一つであつたことについても、前記認定の接触地点との相関関係から考察すれば、そのために著しい不合理があつたとは考えられない。本件の接触地点は前述のとおり、客観的な資料に基づき科学的方法により軌跡計算をして推定したものであり、それは目撃者の目撃状況にも矛盾するところは少なく、右推定を覆すに足る有力な反証もないのであるから、これがフライト・データ・レコーダ記録の解析による推定接触地点と殆ど符合していたということは、証拠の総合的価値判断の観点に照らし両者の推定方法に誤りはなかつたことを立証して余りあるものということができる。従つてフライト・データ・レコーダ記録の解析による航跡の推定にも合理性、正確性を肯認するに十分であり、これを不正確なものとして排斥した原判決の説示には左袒できない。

(四) 弁護人は海法鑑定書を根拠として独自の航跡を主張するので考察するに、

同鑑定書は、主としてカラー・データ・フイルムの解析を基礎として全日空機の航跡および接触地点を推定しており、その要旨は次のとおりである。即ち、「事故当時三沢基地で得られたカラー・データ・フイルムの接写フイルムのうち航跡解析に有用な二八コマを二五〇万分の一の地図に対応できるように拡大して焼付け、更にこの写真をもとにして一〇〇万分の一の地図に対応できるように拡大して航空図面を作成し、これを各航空機の位置通報と各航跡プロツトとの相関により一〇〇万分の一の地図上に位置させた。そのうち全日空機のフライト・データ・レコーダ記録解析表の機首磁方位と一致するものを全日空機の航跡とした。右全日空機の一三時五九分九秒以降接触地点に至る航跡は得られなかつたが、前記航跡にみられる飛行状況およびフライト・データ・レコーダの記録からみても、函館NDB―仙台VORを結ぶ線上を飛行していたと考えるのが妥当である。これは同機が自動操縦装置により水平定常飛行をしていたことおよびコース表示器の方位指針が仙台VORから太子VORへの磁方位である二〇五度を指していたことと符合する……」というのである。

しかし乍ら右の推定には次に述べる幾多の不合理な点が認められる。即ち

(イ) カラー・データ・フイルムの解析について

(A) 前記証人山県昌夫、同井戸剛、同後藤安二の各証言によれば、カラー・データ・フイルムは地上のレーダーが空間で捕捉した航空機をブラウン管その他を経由させフイルムに写したものであるから、途中の媒体が非常に多く、航空機の局地的な位置やその航跡を求めるには適していないことが認められる。

(B) 海法鑑定人の右ブラウン管上の表示の再現方法は、要するに右フイルムを拡大して必要な航空機の位置通報等の情報が最も合致するようにしつつ地図上に位置させようとするものであるから、或る程度の誤差は免れない。同鑑定人は原審公判廷において作業上の誤差を「各位置通報点からプラス・マイナス三〇秒の範囲内におさめた。」としているが、同鑑定書添付第二図に記載されている航空機が同図の中で「秋田NDB」「トイ」「ゴツトフイツシユ」の位置通報点を通過している時刻は、昭和四八年一一月一四日付捜査関係事項照会回答書(二通)の記載によると、札幌交通管制部および東京航空交通管制部に照会の結果明らかとなつた同地点での右航空機の通過時刻と大きく異つていることが認められ、プラス・マイナス三〇秒の範囲内にいずれもおさまつていない。

(C) 海法鑑定人は原審公判廷において、第一図を一〇〇万分の一の地図にプロツトして第二図を作成する過程において、航空機の位置通報点の通過地点やエステイメイト(到着予定)地点を参照し、地図上に固定させてプロツトしたとしているが、前記証人井戸剛、同後藤安二の各証言に前記照会回答書(二通)の記載によると、同鑑定書第二図の中で位置通報の内容から通過地点等が判明するものとしては、NH三九一号機の札幌NDB(一三時五八分)、NH五七五号機の三沢NDB(一四時〇六分)、TD一一四号機の「オブチ」(一四時〇六分)、TD一〇二号機の松島NDB(一四時〇六分)等があるが、いずれも右通過地点においては、その航空機はカラー・データ・フイルム上に一機も写つていない。また第二図の中には、TD一〇三号機の美唄NDB(一四時〇二分)、TA五八二号機の新潟NDB(一四時三三分)、NH五七五号機の千歳NDB(一四時二五分)、TD一〇二号機の太子NDB(一四時三六分)等がエステイメイトの地点として記載されているが、これも同様右エステイメイトの地点には航空機はカラー・データ・フイルム上に写つていない。従つて右第二図をみる限り海法鑑定は、TA五八二号機の函館の位置通報を参考にして函館をプロツトする際の原点としていることが窮われるのであるが、前記証人井戸剛の証言によれば、一般に航空機が実施している位置通報の場所や時期は一定していないうえ、NDB局から出たシグナルも高高度に至る程扇状になり、二八、〇〇〇フイートでは数マイルの幅があることを考慮すると位置通報点およびその時刻から航空機の正確な位置を求めることは困難であることが認められる。

(D) 海法鑑定は、全日空機の航跡中番号「24」ないし「27」の三分間の航跡を捉えて、本件全日空機が函館NDBと仙台VORを結ぶ線上を飛行していたことの論拠の一つとしているが、前記井戸剛証言により認められるとおり、航空機の位置を示すレーダ・エコーを一〇〇万分の一の地図の大きさに拡大すれば数ミリの大きさになるのであり、作業上かなり大きな誤差の生ずるプロツト方法で航跡を求めながら、その航跡を幅を無視した点で捉え、それを結んだ線をもつて一定の方向性があるように結論づけるのは不合理である。海法鑑定人自身原審公判廷において、番号「27」までの航跡についても幅を考える必要を認め、「航跡に幅がある限り、航空機はその幅のどの地点を飛行しているか正確には判らない」旨供述している。そこで航跡に幅があるとすれば、同鑑定書の全日空機の航跡である線がその幅の中のどこの線であるかを確かめなければならないが、この点について、同鑑定人は原審公判廷において「全日空機の航跡としては鑑定書第二図の番号『16』から『27』までの平均的な方向に向つて飛行していたと判断するのがより確率が高い。」旨供述している。しかしその平均的な方向は必ずしも仙台VORに向つておらず寧ろ松島NDBの方向に近似している。

(E) 更に前記証人山県昌夫、同井戸剛、同後藤安二の各証言によれば、本件のカラー・データ・フイルムは事故発生前の午後一時五七分に機器の故障で二〇分間中断し、その間の航跡を解析することは不可能であつた事実が認められる。

(ロ) 次に二〇五度の方位指針について

墜落時の全日空機の第一(機長席側)CI(コース表示器)および第二(副操縦席側)CIの各ヘデイング・カーソル(方位指針)がいずれも二〇五度を示していたことは前記のとおりである。

しかし乍らそのときの計器類は、無線磁気指示器(RMI)について、第一RMIの指示方位は一六〇度を示しており、自動方向探知器(ADF)と超短波全方向レンジ(VOR)の選択スイツチの第一スイツチはVOR位置にあつたが、容易に動く状態であり、第二スイツチはADF位置にあつた。第二RMIの指示方位は二〇五度を示しており、ADFとVORの選択スイツチの第一スイツチは破損分離していて位置が不明で、第二スイツチはADF位置とVOR位置の中間にあつたが、第二スイツチは容易に動く状態であつた。コース表示器(CI)は第一CIの指示方位は一六〇度、コース指針(コース・カーソル)は一八〇度、コース・カウンタは一七七度、二〇五度を示していた方位指針(ヘデイング・カーソル)の選択つまみは破損していた。第二CIの指示方位は二〇五度、コース・カーソルは一八〇度、コース・カウンターは一八二度、二〇五度を示していたヘデイング・カーソルの選択つまみは破損していたことも前記説示のとおりで、これらの計器類が墜落時の衝撃で影響を受けることは当然にありうることで、殊に原審証人山下憲一の証言によれば、第一、第二とも選択つまみの破損していたヘデイング・カーソルは一層その可能性が大きいことが認められる。同証言および前記後藤安二の証言によると第一CIのコース・カウンタが一七七度であつたことは、ジエツトルートJ11Lの一八三度よりも六度左のコースをとつていたことになり、これは墜落の衝撃で動いたことを明らかに示すものである。本件の場合松本洋彦の検察官に対する供述調書によると偏流が大体五度から六度であつたことが認められるので、一八三度にそれを加えるとフライト・データ・レコーダの解析値である一八九度ないし一九〇度に殆んど一致する。若しヘデイング・カーソルが二〇五度を示していたと仮定すれば、機首磁方位を一九〇度としても一五度右にそれることとなり、一五マイルも西に行つてしまう計算になることが認められる。このような事情を勘案すれば右二〇五度を根拠に全日空機が仙台VOR局に向つて飛行していたと推定することは合理性に乏しいという外はない。

これを要するに海法鑑定は、当裁判所の前記認定を覆すに足るものとは認め難い。従つてこの点の所論も採用できない。

三  自衛隊機の航跡と相対飛行経路

(一) 被告人両名の離陸から機動隊形の編隊飛行に入るまで

右の飛行経過については、原判決がその挙示する関係各証拠を総合して認定したところは、当裁判所もこれを是認することができる。即ち右各証拠によると「被告人両名は昭和四六年七月三〇日午後一時三〇分から午後二時四〇分までの間被告人隈を教官として同市川を訓練生とする二機編隊により「盛岡」訓練空域において機動隊形等の編隊飛行訓練を実施することとされていたため、それに先き立ち、同日午後一時前ころからブリーフイングルームにおいて飛行前の打合せを行つた。その際被告人隈は同市川に対し、スケジユールボードに記載されていた事項を順次読み上げ、訓練時間が午後一時三〇分から午後二時四〇分までであること、コールサインは隈機がライラツク・チヤーリーⅠ、市川機がライラツク・チヤーリーⅡであること、ミツシヨンチヤンネル、スタンバイ・チヤンネルはいずれもタンゴ2であること、残燃料がなくなつた場合は教官機に報告すること、訓練空域は「盛岡」であること、をそれぞれ確認させ、次いで、右飛行中に実施する訓練の実施順序について説明し、さらに編隊各機に故障が生じた場合にとるべき措置を指示し、最後に編隊飛行の各隊形および各隊形から次の隊形に移行する際の注意事項を指摘し、見張りを行うことについても注意をした。被告人両名は、右打合せを終えた後離陸予定時刻の二〇分前ころから各搭乗機の点検を行い、同日午後一時二六分松島飛行場管制所から地上滑走の許可を得て同飛行場二五滑走路手前に移動し、同一時二八分離陸許可を求め、直ちに許可されたので、同時刻ころ同滑走路を離陸した。

離陸した両機は、基本隊形により速度約三三〇ノツト(時速約六一一キロメートル)で上昇しつつ一旦松島湾海上に出て左旋回し、再び宮城県石巻市東方付近より陸上に入り、同所付近上空から栗駒山の方向に機首を向けて上昇を続け、そのころ両機の交信用周波数を訓練用周波数(ミツシヨン・チヤンネル)のタンゴ6(予定のタンゴ2の市川機の受信状況不良による)に切り換えた後一時三五分ないし四〇分頃同県栗原郡築館町付近の高度約一二、〇〇〇フイート(約三、六五〇メートル)上空に至り、その付近から疎開隊形に移り、左右に旋回しつつ更に上昇を続け、一時四五分ころ岩手県和賀郡湯田町内通称川尻付近の高度約二四、〇〇〇フイート(約七、三〇〇メートル)上空に達し、そのころ被告人隈は無線で同市川に対し機動隊形の基本位置に移行するよう指示を与えることとともに、自らは高度約二五、五〇〇フイート(約七、七五〇メートル)に位置し、速度マツハ約〇・七二(真対気速度四四五ノツト、時速約八二四キロメートル)で水平飛行を開始し、司市川は右指示に従つて隈機の約一〇度ないし三五度後方上空の高度約二八、五〇〇フイート(約八、六六〇メートル)隈機との横間隔約五、〇〇〇フイート(約一、五二〇メートル)から約八、〇〇〇フイート(約二、四三〇メートル)の機動隊形の基本位置についた。」ことが認められる。

(二) その後の航跡と相対飛行経路

(イ) 事故調査委員会の推定する自衛隊機の航跡について

(A) 事故調査報告書は、自衛隊機の航跡について、教官および訓練生の口述、F―86Fの飛行性能、推定空中接触位置等を考慮し、更に接触直前の航跡については、右のほか機材調査の結果判明した接触時の両機(全日空機および訓練機)の姿勢、方向および接触部位、機動隊形の飛行要領等から推定し、同報告書添付第一〇図に示すとおり作図している。右作図された自衛隊機の航跡の概要は次のとおりである。

自衛隊機は、通称川尻付近上空に達して、市川機が隈機の右後方上空に位置して機動隊形の訓練を開始し、まず川尻を左にしてほぼ北東に向かい一八〇度の左旋回を行つた後若干直進し、次いで横手市を右にしてほぼ南西に向つて一八〇度の右旋回を行い、旋回完了後ほぼ北東に向かい直線飛行をしながら「横手」訓練空域の北側境界線を通過し、「盛岡」訓練空域内においてほぼ東に向かい九〇度の右旋回をした後続いて一八〇度の左旋回を行い、さらに九〇度の右旋回を行つたうえほぼ北東に向つてジエツトルートJ11Lの飛行制限空域の西側に侵入し、そのころ岸手山を右にしてその東北部付近で一八〇度の右旋回を行つた後ほぼ南西に向かい若干の直線飛行を行い、更に左旋回を実施して前記認定の接触地点に至つたとするものである。

事故調査報告書が右推定の資料としたもののうち、推定空中接触地点は前記のとおりこれを認定するに足るものがあり、F―86Fの飛行性能、機動隊形の飛行要領等は客観性を認めることのできる資料といえる。また接触直前の航跡を推定するに当り、機材調査の結果判明した接触時の両機の姿勢、方向および接触部位を資料としたことは、客観的証拠に基づく正確性の高いものであることができる。

因みに、本件当時被告人市川ら戦闘機操縦課程の訓練生に対し編隊飛行訓練として行つていた機動隊形における飛行要領は、木村恵一の検察官に対する昭和四六年八月二〇日付供述調書、原審証人菅正昭の供述、被告人隈の検察官に対する同月一三日付供述調書および事故調査報告書、領置にかかる操縦と戦技(当審昭和五〇年押第五八号符号二六)、訓練科目教育指針(同符号三一)教育実施基準(昭和四三年三月戦闘機操縦((E―86F))課程同符号三二)によれば、次のとおりであることが認められる。

戦闘機操縦課程の訓練生に対する二機編隊による機動隊形の訓練は、訓練生に対し右隊形の位置と機動を習得させる目的で実施され、教官機が四機編隊の一番機、訓練機が三番機の位置について疎開隊形から移行することによつて開始さる。その要領は、訓練機が教官の機動隊形開始の指示に従い疎開隊形の基本位置である教官機の後方二〇度ないし四〇度の線から同機の後方一〇度の線まで前進し、右一〇度の線に沿つて高度をあげ、教官機との横間隔を開き機動隊形の三番機の基本位置である教官機の左右いずれか後方一〇度ないし三五度、同機との横間隔を五、〇〇〇フイート(約一、五二〇メートル)から八、〇〇〇フイート(約二、四三〇メートル)の教官機の上空二五、〇〇フイート(約七六〇メートル)から三、五〇〇フイート(約一、〇六〇メートル)の位置に移行することによつて行う。そして機動隊形による水平直線飛行中は、訓練機は右の基本位置を保持して教官機に追従飛行し、この位置の保持は、前後の修正は高度と速度の変換により、また横間隔の修正は機軸を変化させることによつて行う。次に旋回飛行の要領は、まず内側旋回の場合(インサイドターン、教官機が訓練機の位置する方向に旋回する場合をいう)には訓練機は教官機の旋回に従い同機にバンクを合わせ、同機との横間隔を保つたまま同機の後方一〇度の線まで前進し、速度を高度に変換して高度を上げながらバンクを緩めて右一〇度の線上に沿つて同機の直上付近を高度差約二、五〇〇フイート(約一、〇六〇メートル)で交差して旋回の外側に出(クロスオーバー)、次いで教官機の後方一〇度の線上に沿つて高度を速度に変換して高度を徐々に下げながらバンクを調整して教官機との所定の横間隔まで開き、九〇度の内側旋回を完了した時点で旋回開始時と教官機を中心にして反対の側の基本位置につくこととなる。外側旋回の場合(アウトサイドターン、教官機が訓練機の位置するのと反対の方向に旋回する場合をいう)には、まず訓練機は教官機の旋回に従い同機にバンクを合わせ同機との横間隔を維持したまま同機の後方三五度の線まで後退し、高度を速度に変換して高度を下げながらバンクを深めて同機の約六、〇〇〇フイート(約一、八二〇メートル)の後方を高度差二、五〇〇フイート(約七六〇メートル)で通過して旋回の内側に入り(カツトイン)、次いで教官機の後方三五度の線上に沿つて速度を高度に変えて教官機との高度差を、増しつつバンクを調整して所定の横間隔を保ち、九〇度の外側旋回を完了した時点で旋回開始時と教官機を中心として反対の側の基本位置につくこととなる。そして右の内側、外側の旋回飛行の要領に従つて左右の旋回を繰り返えし行うものである。

なお本件当時における機動隊形訓練の場合には、教官は直線および旋回飛行において原則として自機の高度を変化させず、旋回時のバンク角も一定に保つて飛行していた。

(B) 次に教官および訓練生の口述について検討してみるに、前記証人山県昌夫、同後藤安二はこの点につき、事故調査委員会の後藤安二、瀬川貞雄、井戸剛の各委員等が松島基地に赴き、模型を使用するなどして被告人らからその飛行経過を聴取し、主にこれによつて接触直前までの自衛隊機の航跡を推定し、また接触直前に自衛隊機が一八〇度の右旋回を岩手山の東北部付近上空で行つている点についても、被告人らに接触位置や接触状況等を説明して話し合つたところ、被告人らもこれを了承するに至つたものである旨供述しているが、被告人らが事故調査委員等に対し具体的にどのような説明をしたかについて、その詳細は明らかでない。

そこでこれらの点を被告人らの原審公判廷における各供述および検察官に対する各供述調書に基づいて検討すると次のとおりである。

被告人隈は原審公判廷において、「築館付近までは事故調査報告書のとおり大体正しい航跡であるが、それ以後は大まかな感じの航跡しか覚えていない。」「接触直前に約一八〇度の右旋回をし、少し直進してそれから左旋回に入つて約三〇度位旋回したあたりで接触事故が起つたことは間違いない。接触直前の約一八〇度の右旋回のときに岩手山の北を回つた記憶はない。」と供述し、同被告人の検察官に対する昭和四六年八月四日付供述調書においては、「川尻付近上空で機動隊形に移行し、その後は左あるいは右に旋回し、横手空域に入つてからその空域内で南に行つたり北に行つたりして、それから空域を出て北進した。」「衝突した位置から西方約九マイルの位置に達したところで大体一八〇度右に旋回し約一〇秒位直進して左旋回に移り、七二七型機を発見したのは左旋回をはじめて一五秒から二〇秒位経つた時点と思う。」「左旋回を開始する時には二番機(訓練機)は一番機(教官機)の右後方上方に位置していたが、一番機が左旋回を開始したのに従つて二番機は一番機の右後方上方から一番機の左後方上方に移り始め、一番機の真後から左側に移つた時七二七型機が市川の搭乗機のすぐ後に見えた。」、同月九日付供述調書においては、「川尻付近の横手の街の中心部から東北東二〇マイル位の位置で機動隊形に入り、横手の街を目標におき飛行した。市川機が左右のいずれの後方に位置したか記憶がなく、機動隊形をとつてから何回か旋回したが、何回位旋回したか記憶がなく、三六〇度旋回したこともあり、三〇度位旋回したこともある。その外九〇度、一八〇度施回したこともあつた。」「横手空域を出る前後から飛行目標を盛岡の街と岩手山においた。そして北進する時に盛岡の街は一時二〇分から一時三〇分の位置に見、岩手山は一二時半位の位置に見た。その後旋回を始めるときには盛岡の街は三時の方向で、距離は二五マイルないし三〇マイル位、岩手山は一時位の位置であると思つた。この点の記憶は必ずしもはつきりしない。」「横手空域内から同空域の外に出て二分位北進し、その時点から約一八〇度の右旋回を二分間位で行い、一五秒ないし二〇秒位飛行した後左旋回に入り、更に一五秒ないし二〇秒位の時点で七二七型を発見した。」「旋回する場合にはバンク角三〇度以上の角度をとつたことはないし、速度もマツハ〇・七二を保ち、高度も長機は二五、五〇〇フイートを保つていた。」、同月二〇日付供述調書においては、「川尻上空で機動隊形に入つたが、市川機が左右いずれに位置していたか覚えていないし、最初の旋回方向も記憶がない。その後何回か旋回を繰り返したが旋回角度もいろいろ変えている。訓練空域に入つてから一時南方に飛んだこともあるが全体としては北に向つていた。」「事故時の状況についていうと、機首の方向は岩手山を一二時か一二時半の方向を見て右旋回を開始した。岩手山を終始見ながら飛んだのではなく、右旋回開始時点にチラツと見たということであり、その時の旋回角度は約一八〇度であつたと記憶している。一旦岩手山を見てから右旋回を続けたから岩手山の南側を通つたことは間違いない。それから右旋回の途中で前方左右四五度位の間に盛岡市をチラツと見たが、左右いずれであつたかはわからない。約一八〇度の旋回を終えて一五秒ないし二〇秒位直線飛行をした後左旋回に入り事故発生までに盛岡を左手にチラツと見た。」、同月一三日付供述調書においては、「右旋回に移る時には、市川機は私の機の右後方約三〇度の位置を飛行していた。その時の市川機と私の機の高度差は約三、〇〇〇フイート、距離は約六、〇〇〇フイートと思われる。」「七二七型機を発見した時には市川機は私の機から見て七時の方向に位置していたが、私の機との距離は約六、〇〇〇フイート、高度差二、五〇〇フイート位と思う。」「その直後事故が発生したのであるが、若しその時点で事故が発生していなければ私の機は九〇度左旋回してJ11Lの制限空域をほぼ直角に横切る予定であつた。」「私の機は終始マツハ〇・七二を維持していた。」「市川機は〇・七〇から〇・七四まで変化させ、七二七型機を発見した位置では〇・七四位だつたと思う。」、同月二一日付供述調書においては、」事故直前の左旋回は水平旋回であつたことは間違いないが、直線飛行の前の段階の右旋回については、水平旋回であつたと思うがはつきりしない。」旨それぞれ供述している。また同被告人の供述書謄本にも「午後二時三分ころチヤーリーI(隈機)は左旋回を実施していた。チヤーリーII(市川機)は施回の外側にいたため、チヤーリーIの後方約六、〇〇〇フイート、高度約二八、〇〇〇フイートでチヤーリーIの左側に移行して来た。私が左側に目を転じた時南進するB―727を視認しチヤーリーIIと同高度であると判断した。」旨記載している。更に同被告人は原審公判廷において「昭和四六年八月一三日付の検察官調書に添付されている航跡図は訓練機の教科書どおりの関係位置を記載したもので、市川機が実際に飛行した航跡は覚えていない。」旨述べているが、全日空機を発見した時の状況については、「自機が左バンク二〇度で旋回中に、市川機との関係位置が大体六、〇〇〇フイート、高度差二、五〇〇フイートであつたとき、全日空機が自機の七時から七時半の方向に、市川機と同高度でそのすぐ後ろに接近しているのを発見した。」旨供述している。

次に約一八〇度の右旋回後若干の直線飛行をした際の飛行時間については、同月四日付の検察官調書では「約一〇秒位」、同月九日付の検察官調書では「一五秒ないし二〇秒くらい」、同月二〇日付の検察官調書では「約二〇秒程」とそれぞれ述べ、原審公判廷では、「あのとき少し直線飛行をやつたと言つたら、何秒くらいかと尋ねられたので、そんなに長くもなく、かといつてパツとロール・アウトしてすぐロール・インしたわけでもないので、そんな位でなかろうかという数字を挙げた。」「いろいろいわれたので、それでは一〇秒にしてくださいとか一五秒にしてくださいと言つた。」旨供述し、当審公判廷においても同趣旨の供述をしている。

次に被告人市川は、原審公判廷においても、その飛行経過については具体的な供述をしておらず、同被告人の検察官に対する各供述調書においても、離陸後石巻市はわかつた(同月二〇日付調書)が、それ以外の地形で目に入つたのは山や田圃ばかり(同月一〇日付調書)で、特定できるところはなく、ただ回数として四回位機動隊形の旋回を行い、五回目位の施回のときに接触した(同月一六日付調書)旨供述しており、また接触直前の状況については、同月二日付、同月九日付、同月一〇日付各供述調書において、いずれも接触直前の自己機の飛行状態について「五回目の機動隊形の旋回飛行中自機が教官機の左後方上空の基本位置から旋回をはじめ一八〇度の左旋回を四分の三位行つたところで全日空機と接触した。」と供述していたが、同月一六日付の調書で、取調官から被告人隈の供述と矛盾する旨指摘され、結局確実に記憶している接触直前の状況として次のように供述している。即ち同日付の調書によると、接触直前に「何れにしても、自機は一番機の右後方上空に出て、フルード・フオアの基本位置に至つた。その時の自機の位置は、一番機と横幅を約六、〇〇〇フイートにとつており、高度差は約三、〇〇〇フイートであつた。」「一番機が左旋回を始めた(なお同被告人は後に同調書中において左旋回を開始したのかあるいは左旋回の継続中であつたのかはつきりしない旨訂正している。)ので、私も同様左旋回を始めたが一番機の外側から内側に入るためバンク角を六〇度位に深め、高度を下げながら一番機との横幅を狭めて行つて一番機の後方約一、五〇〇フイートの付近で横切り、一番機の左側に出た。一番機の航跡を横切る時の高度差は約一、五〇〇フイートであつた。」「下降しながらスピードをマツハ〇・七二位から徐々に上げて行き、一番機との横幅を徐々に広げて行つた。下降中の自機のノーズ(機首)は三五ないし四〇度下向けにしたと記憶している。このように下降しながらバンク角を若干緩め、五〇ないし六〇度位に直し、又次の上昇に備えてノーズを徐々に上げて行つた。自機は最も低い位置に下がつたが、その時点で自機のスピードは最高(マツハ〇・七四位)に達した。又その時のノーズは若干上がった状態であつたが角度は判らない。そしてバンク角を二〇度位にゆるめた。この時一番機を見たところ一番機は自機の右前方約七〇度の線上下方にあり高度差六〇〇フイート、横幅が約五、〇〇〇フイートであつた。その時点で自機の右後方に何か物体があるような感じを受け、右後方に首を回し見たところ、大体五時の方向に民間機を発見した。」旨供述している。また同被告人は原審公判廷において、全日空機を発見する直前の飛行状態について、「私の機は左旋回で長機の内側に出てくる動作をしているときである。」「長機に対して横幅が大体いいなあという感じのところだつたと思う。そして高度としてはだんだん下がつていつたのを機首を若干上げながらこれから上昇に移ると、そんな感じの時点であつた。」と供述し、それ以前の飛行経過については、左旋回の直前に直進飛行をした確かな記憶はない旨述べている。

(C) 以上のとおりであるから被告人らの右各供述によれば、機動隊形に入つてから以後の自衛隊機の航跡は、通称川尻付近上空において機動隊形に移行した後ほぼ機動隊形の飛行要領に従つて横手空域北部およびその北側上空で一八〇度および九〇度の旋回飛行を四回位繰り返えしながら北進したという程度の事実は認められるが、それが事故調査報告書添付第一〇図のとおりであつたかどうかは疑わしい。しかも同報告書の接触直前の状況について、北進を続けていた自衛隊機が約一八〇度の右旋回を行い、次いで隈機が一〇数秒の直線飛行をした後左旋回を継続中これに追従していた市川機が前記認定の接触地点で全日空機に接触したというおおよその事実はこれを裏付けるに足るものがある。そこで更に右各供述を検討しつつ接触直前の相対飛行経路に考察を進める。

(ロ) 接触直前の相対飛行経路

原判決が、この点につき事故調査報告書に基づく接触約三分前からの各機の相対飛行経路(同報告書添付第一一図の一)は全体として概ね実態に近い相対飛行経路を示すものと認め、接触直前四四秒前からの各機の相対飛行経路を同報告書(添付第一一図の二―約三〇秒間)に従い原判決添付別紙第三図のとおり認定していることは所論のとおりである。

(A) 事故調査報告書によれば、接触約三分前からの各機の飛行経路を次のとおりであると推定している。(このうち全日空機の航跡は事故調査報告書の推定を合理的なものと認定していることは前記のとおりであるから省略する。)即ち

「教官機は高度約二五、五〇〇フイート(約七、八〇〇メートル)、真対気速度約四四五ノツト(マツハ約〇・七二=時速約八二四キロメートル)で二分の一標準率旋回の右旋回を約一八〇度行い、約一五秒直進して、次に左旋回に移つた。教官は、左旋回を続行中、時計の六時半から七時(一九五度から二一〇度)位の方向に訓練機とそのすぐ後方に接近している全日空機を発見し、直ちに訓練生に対し接触回避の指示を与え、同時に訓練生を誘導するつもりで自己機を右に旋回させ、続いて左に反転し、墜落していく全日空機の下をくぐり抜けた。訓練機は、教官機の右側後方約二五度の線上約五、五〇〇フイート(約一、六五〇メートル)の距離の上空に教官機との高度差約三、〇〇〇フイート(約九〇〇メートル)をとつて位置し、教官機の右旋回開始と同時に機動隊形の飛行要領に基づいて、速度を高度に換えて教官機の上空を通過し、約九〇度の旋回時点で旋回の外側に移行し、続いて高度を速度に換え、教官機の後方を通過して約一八〇度の旋回終了時点で、教官機に対し旋回開始前とほぼ同じ関係位置に戻り、教官機に追従した。次に左旋回が開始されるや、外側旋回の飛行要領に基づいて、高度を速度に換えながら教官機の後方を通過して旋回の内側に移行中、教官機の左側一五〇度ないし一六五度の方向約五、〇〇〇フイート(約一、五〇〇メートル)後方の位置に来た時、教官からの異常事態の通信が入り、その直後に自己機の右側時計の四時から五時(一二〇度から一五〇度)位の方向至近距離に大きな物体を認め、とつさに回避の操作をしたが、間に合わなかつた。」というものである。

(B) そして右の接触約三分前からの各機の飛行経路図および同図中の接触約三〇秒前からの拡大図を、その間における各機の飛行状況のデータを次のとおりの数値として作図している。即ち全日空機は、終始真対気速度四八七ノツトの直線飛行、教官機は、真対気速度四四五ノツトで三〇度パンク水平旋回飛行、但し接触四四秒前から二九秒前までの一五秒間は直線飛行、訓練機は、真対気速度を同四三三ノツトないし同四五七ノツトの平均値である四四五ノツトとし、機動隊形の飛行要領に従い教官機に追従するものとし、なお接触二九秒前から接触時までのバンク角および降下率を、その時点に応じて修正し、また右一五秒間の直線飛行中における教官機と訓練機との水平距離は五、五〇〇フイートとし、全日空機と訓練機との接触直前の飛行経路のなす角を七度として作図している。

右作図された接触約三分前からの各機の飛行経路図によれば、全日空機は接触二分四四秒前から接触時まで直線飛行を続行し、教官機は、同時刻から全日空機の進路前方を横断する状態で、二分の一標準率旋回の右旋回を開始し、接触一分四四秒前に九〇度旋回し、さらに接触四四秒前に一八〇度旋回を終了し、直線飛行に移行したものとされ、訓練機は、右二分四四秒前に教官機の右後方二五度の線上にあつて右旋回を開始し、接触一分四四秒前に旋回外側の教官機の左後方二五度の線上に達し、接触四四秒前には旋回内側の教官機の右後方二五度の線上に到達し、直線飛行に移行したものとして作図されている。そして接触四四秒前から接触時までの各機の飛行経路図は、原判決添付別紙第三図のとおりであるとされている。

(C) ところで、事故調査報告書によれば、右接触約三分前からの各機の飛行経路図および三〇秒前からの拡大図の精度について、作図に用いた「データには、多少の誤差が存在すると認められるものの、教官機については教官が三〇度パンク水平旋回飛行(一部直線飛行)をしていたと推定されることからおおむね実態に近いものと考えられ、訓練機については、訓練生が教官機との関係位置を速度、高度を変化させながら目測によつて保つていたため、教官機に比べてやや正確さが劣つたものとなつている。したがつて、接触約三分前からの航跡は、接触直前数秒間はかなりの精度を持ち、それから時間がさかのぼるに従つて精度が低下するとはいえ、おおむね妥当なものと考えられる。」としており、また接触四秒前からの全日空機および訓練機の関係位置については「全日空機及び訓練機の接触部位が明確にされたこと、接触時の全日空機及び訓練機の姿勢、方向等がほぼ明確にされたことならびに訓練生が全日空機を視認した時の全日空機及び訓練機の位置、方向等が判明したこと等により、ほぼ実態に近い関係位置が推定される。」としている。

(D) そこで右の調査結果を被告人らの前記各供述と対照して検討してみるに、

(I) 接触前四秒以降の相対航跡

右報告書が接触四秒前からの全日空機および訓練機の関係位置について挙げている右両機の接触部位、姿勢、方向等はさきに述べたとおり(1)全日空機の左水平尾翼安定板ステーシヨン二一四付近の上面外板上に赤色の線が機軸と四〇度ないし四三度の角度で前桁から後へ内側に向つて約六〇センチメートルの長さでついており、安定板ステーシヨン二一一付近の下面外板上に赤色の線が機軸と約四五度の角度で前桁後方四センチメートルのところから後へ内側に向つて六センチメートルにわたりついており、安定板ステーション一八九から二一四付近の上面外板上に機軸と約四〇度ないし四五度の角度で前記赤線と同方向に多くの擦傷があり(弁護人はこの擦傷は落下地点の樹木との接触によるものと思われるとしているが、領置物((当審昭和五〇年押第五八号符号一六))の状況に照らすとそのような軟体物による擦傷とは認められず、金属体の接触による擦傷痕であることは明らかである。)、安定板ステーシヨン一〇〇付近の後桁フランジは後方へ曲つており、垂直尾翼の右前桁、胴体との取付部付近の破断部は垂直尾翼が右へ倒れる方向に曲り、安定板ステーシヨン一〇〇付近の右側ストリンガにも同方向の局部挫屈があり、水平尾翼との取付構造は左水平尾翼に後曲げの力をかけた方向に著しく変形しており、(2)訓練機の右主翼の胴体中心線から一・四〇メートル付近の構造が、後から前に変形するとともに下から上に変形していたのであるからこれらの状況にそのときの訓練機の速度、バンク角、降下率等を可能な限り明確にし、更にF―86Fの飛行性能、機動隊形の飛行要領等を総合検討してゆけば、ほぼ実態に近い相対航跡が推定された作図されることは可能であるといわなければならない。被告人市川は接触直前の状況につき、昭和四六年八月一六日付検察官調書において、「一番機が左旋回を始めた(左旋回を開始したのかあるいは左旋回の継続中であつたかははつきりしないと訂正していることは前記のとおり)ので、私も同様左旋回を始めたが、一番機の外側から内側へ入るためバンク角を六〇度位に深め、高度を下げながら一番機との横幅を狭めて行つて一番機の後方約一、五〇〇フイートの付近で横切り、一番機の左側に出た。一番機の航跡を横切る時の高度差は約一、五〇〇フイートであつた。」「下降しながらスピードをマツハ〇・七二位から徐々に上げて行き、一番機との横幅を徐々に広げて行つた。下降中の自機のノーズ(機首)は三五ないし四〇度下向けにしたと記憶している。このように下降しながらバンク角を若干緩め五〇ないし六〇度位に直し又次の上昇に備えてノーズを徐々に上げて行つた。自機は最も低い位置に下がつたが、その時点で自機のスピードは最高(マツハ〇・七四位)に達した。又そのときのノーズは若干上がつた状態であつたが角度は判らない。そしてバンク角を二〇度にゆるめた。この時一番機を見たところ、一番機は自機の右前方約七〇度の線上下方にあり、高度差六〇〇フイート、横幅が約五、〇〇〇フイートであつた。その時点で自機の右後方に何か物体があるような感じを受け、右後方に首を回して見たところ、大体五時の方向に民間機を発見した。」旨供述し、被告人隈は「一番機が左旋回を開始したのに従つて二番機は一番機の右後方上方から一番機の左後方上方に移り始め、一番機の真後から左側に移つた時七二七型機が市川の搭乗機のすぐ後に見えた。」(同月四日付検察官調書)「七二七型機を発見した時には、市川機は私の機から見て七時の方向に位置していたが、私の機との距離は約六、〇〇〇フイート、高度差二、五〇〇フイート位と思う。」「私の機は終始マツハ〇・七二を維持していた。」(同月一三日付検察官調書)旨それぞれ供述していることは前記のとおりである。当裁判所は接触直前の同被告人らの視認が右のとおり比較的明確である事実に鑑み専門家である多数の事故調査委員が、これらの情況に動かすことのできない数多くの物的証拠その他の資料を対象に綿密に調査し相互に検討を重ねながら作図した接触前四秒以降の全日空機と訓練機の相対航跡には科学的にも実証的にも極めて精度の高いものがあると認定する。同報告書がこれをほぼ実態に近いと述べていることは相当である。

(II) 接触前三分以降の相対航跡

次に接触前三分以降の各機の相対航跡および三〇秒以降の拡大図の精度について考察するに右各図の作成に関与した前記証人後藤安二は、接触前三分以降の自衛隊機の飛行経路は、被告人らの口述を基礎資料としたものであり、同図では自衛隊機は「一八〇度回つたように書いてあるが、これがぴつたり一八〇度かどうかということは定かではない。但しぶつかつたのは事実であるから、それから逆算すると作図のようになり、秒数が先になるほど誤差は大きくなつてくるけれども、そのぶつかる寸前になればなるほど誤差とか関係位置というものはまず間違いない……。」旨述べ、前記証人山県昌夫は「接触の角度、飛行機にそういう痕跡が残つているとか、最後のポイントは割合はつきりしているわけである。だから接触のときが一番正しいんで、接触の時刻からさかのぼるにしたがつて必ずしも正確ではなく、正確度が落ちる。」「教官あるいは訓練生の記憶が確かではないが、どこでどんな角度に見えたかというようなことを聞いているので、そういうようなことを土台にして航跡を書いたというだけである。むしろ拡大図は相当信用性のあるもので、四秒前からの航跡が絶対に正しいと思つてはいないが、こういう相対位置であつたことは確かであると思う。」と述べ、自衛隊機相互の飛行経路については「大体機動隊形の飛行要領に基準を置いて書いた。当日訓練生がそういう理想的な隊形をしていたかということは、そうでないという証拠はないから少なくともそう考えざるをえない。」旨供述している。

(A) 隈機の航跡

被告人隈は「接触直前に約一八〇度の右旋回をし、少し直進してそれから左旋回に入つて約三〇度位旋回したあたりで接触事故が起つたことは間違いない。」(原審公判廷供述)「大体一八〇度右に旋回し、約一〇秒位直進して左旋回に移り、七二七型機を発見したのは左旋回をはじめて一五秒から二〇秒位経つた時点と思う。」「左旋回を開始する時には二番機は一番機の右後方上方に位置していたが一番機が左旋回を開始したのに従つて二番機は一番機の右後方上方から一番機の左後方上方に移り始め、一番機の真後から左側に移つた時七二七型機が市川の搭乗機のすぐ後に見えた。」(昭和四六年八月四日付検察官調書)「約一八〇度の右旋回を二分間位で行い、一五秒ないし二〇秒位直進飛行した後左旋回に入り、更に一五秒ないし二〇秒位の時点で七二七型機を発見した。旋回する場合にはバンク角三〇度以上の角度をとつたことはないし、速度もマツハ〇・七二を保ち、高度も長機は二五、五〇〇フイートを保つていた。」(同月九日付検察官調書)「約一八〇度の旋回を終つて一五秒ないし二〇秒直線飛行をした後左旋回に入り、事故発生までに盛岡を左手にチラツと見た。」(同月二〇日付検察官調書)、「七二七型機を発見した時には市川機は私の機から見て七時の方向に位置していたが、私の機との距離は約六、〇〇〇フイート、高度差二、五〇〇フイート位と思う。」「私の機は終始マツハ〇・七二を維持していた。」(同月一三日付検察官調書)「事故前の左旋回は水平旋回であつたことは間違いないが、直線飛行の前の段階の右旋回については、水平旋回であつたと思うがはつきりしない。」(同月二一日付検察官調書)「午後二時三分頃チヤーリーI(隈機)は左旋回を実施していた。チヤーリーII(市川機)は旋回の外側にいたため、チヤーリーIの後方約六、〇〇〇フイート、高度約二八、〇〇〇フイートでチヤーリーIの左側に移行して来た。私が左側に目を転じた時南進するB―727を視認し、チヤーリーIIと同高度であると判断した。」(同月二一日付供述書謄本)旨述べていることは前記のとおりである。記録によれば、同被告人は昭和三四年四月一六日航空自衛隊に航空学生として入隊し、同三七年四月二六日基本操縦課程、同年一二月二三日戦闘機操縦課程、同四一年六月二五日T―1ジエツト練習機操縦教官課程、同四四年一〇月六日計器飛行教官課程、同四六年六月二三日F―86Fジエツト戦闘機操縦教官課程をそれぞれ修了し、同年七月一日松島派遣隊勤務を命ぜられたものであり、総飛行時間は二、四七六時間五〇分で、そのうちF―86Fによるものは七二八時間五〇分であつたことが認められるので、その飛行経験からすれば同被告人が事故後間もない頃検察官に対し供述したところは、ほぼ確実な記憶に基づいたものと推定することができる。従つて一八〇度右旋回の航跡は兎も角直線飛行に入つてから以降の教官機の飛行経路は、前記各証人の証言に照らし被告人隈の正確な視認の状況が事故調査報告書の作図のうえに反映されて、ほぼ実態に近い妥当性のあるものと認めることができる。殊に同被告人が検察官の取調べに対し図示している航跡ならびに当審において取調べた同被告人の司法警察員に対する昭和四六年八月八日付供述調書において方向、角度等を詳細に記述して航跡を図示しているところは、右航跡の合理性を窺わせるに足るものがある。尤も当審第二回検証において実施した機動隊形飛行における教官機の右旋回に次ぐ直線飛行に要した時間は八・八秒であつたことが認められるので、同被告人の右に述べた時間的な記憶の点は必ずしも正確とはいえず、同被告人の記憶に基づいても一〇秒から二〇秒の開きがあるので、この点は右検証の結果をも勘案して、同被告人が直線飛行をした時間は一〇秒(本件当時の速度四四五ノツトに対し、検証の際は速度を三九〇ノツトで実験しているので、本件当時の方が旋回幅も大きくなり、時間も少しく長めになることが考えられ、従つて右の八・八秒を基準にして右のとおり一〇秒としても不合理ではない。)ないし一五秒であつたと認定するのが相当である。

しかし乍ら直線飛行に入る以前の航跡については、同被告人は「接触直前の右旋回のときに岩手山の北を廻つた記憶はない。」(原審公判廷供述)「右旋回を始める時には盛岡の街は三時の方向で距離は二五マイルないし三〇マイル位、岩手山は一時位の位置であると思つた。この点の記憶は必ずしもはつきりしない。」(同月九日付検察官調書)「機首の方向は岩手山を一二時か一二時半の方向に見て右旋回を開始した。岩手山を終始見ながら飛んだのではなく、右旋回開始時点にチラツと見たということであり、その時の旋回角度は約一八〇度であつたと記憶している。一旦岩手山を見てから右旋回を続けたから岩手山の南側を通つたことは間違いない。」(同月二〇日付検察官調書)「直線飛行の前の段階の右旋回については、水平旋回だつたと思うがはつきりしない。」(同月二一日付検察官調書)旨述べているのであつて、記憶は曖昧という外はなく、そのうちで比較的記憶に残つていることは、旋回角度が約一八〇度であつたことと、岩手山の南側を通つたという二点だけである。してみると一八〇度右旋回に際して教官機が三〇度バンク、水平旋回飛行をしたことを前提として、岩手山の東北部を迂回したごとく作図されている事故調査報告書のこの部分の航跡推定には、その前提に被告人隈の記憶と明らかに相容れないものがあり、果して実態に近いものといえるかどうか疑わしいといわなければならない。

(B) 市川機の航跡

次に被告人市川の飛行経路について考察してみるに、接触前四秒以降接触までの航路がほぼ実態に近いものと認められることは前記のとおりであるからその延長線上の或る程度時間を遡る部分までは事故調査報告書を作成した各委員が「時間がさかのぼるに従つて精度が低下するとはいえおおむね妥当なものと考えられる。」と述べていることは首肯できる。しかしそれがどの時間帯までを妥当とするかということについては検討を要することである。記録によれば、同被告人は昭和四三年三月二一日に航空自衛隊に航空学生として入隊し、T―34、T―1、T―33の操縦訓練を受け、同四六年五月八日基本操縦課程を修了し、同日戦闘機操縦課程の履修を命ぜられ、同年七月一日松島派遣隊勤務を命ぜられたものであり、総飛行時間は二六六時間一〇分で、そのうちF―86Fによるものは、浜松基地で約七時間、松島基地で約一四時間合計二一時間搭乗し、主として基本隊形、梯形隊形、疎開隊形等の編隊訓練を受け、機動隊形訓練は本件事故時が午前の第一回に引続く二回目の訓練であつたことが認められる。同被告人は事故後間もない八月二日、同月九日、同月一〇日の検察官の取調べに対し「五回目の機動隊形の旋回飛行中自機が教官機の左後方上空の基本位置から旋回をはじめ、一八〇度の左旋回を四分の三位行つたところで全日空機と接触した。」旨供述していたのであるが、同月一六日取調べた検察官から被告人隈の供述と矛盾していることを指摘され結局「何れにしても自機は一番機の右後方上空に出てフルードフオアの基本位置に至つた。その時の自機の位置は一番機と横幅を約六、〇〇〇フイートにとつており、高度差は約三、〇〇〇フイートであつた。」「一番機が左旋回を始めたので私も同様左旋回を始めたが、一番機の外側から内側へ入るためバンク角を六〇度位に深め、高度を下げながら一番機との横幅を狭めて行つて一番機の後方約一、五〇〇フイートの付近で横切り、一番機の左側に出た。一番機の航跡を横切る時の高度差は約一、五〇〇フイートであつた。」旨供述し、なお「自分が左旋回を始めたとき一番機が左旋回を開始したときであつたか、左旋回中であつたかはつきりしない。」旨供述を訂正していることは前記のとおりである。また同被告人は一番機の後方を横切り一番機の左側に出た後「下降しながらスピードをマッハ〇・七二位から徐々に上げて行き、一番機との横幅を徐々に広げて行つた。下降中の自機のノーズ(機首)は三五ないし四〇度位下向けにしたと記憶している。このように下降しながらバンク角を若干緩め五〇ないし六〇度位に直し又次の上昇に備えてノーズを徐々に上げて行つた。自機は最も低い位置に下がつたが、その時点で自機のスピードは最高(マッハ〇・七四位)に達した。又その時のノーズは若干上がつた状態であつたが、角度は判らない。そしてバンク角を二〇度位にゆるめた。この時一番機を見たところ一番機は自機の右前方約七〇度の線上下方にあり高度差約六〇〇フイート、横幅が約五、〇〇〇フイートであつた。その時点で自機の右後方に何か物体があるような感じを受け、右後方に首を回して見たところ、大体五時の方向に民間機を発見した。」旨述べているのである。同被告人の飛行経験殊に機動隊形訓練が二回目であつたという乏しい経験に照らすと、この記憶もどれ程正確性が認められるものか疑問であるが、被告人隈は検察官の取調べに対し、「左旋回を開始する時には二番機は一番機の右後方上方に位置していたが、一番機が左旋回を開始したのに従つて二番機は一番機の右後方上方から一番機の左後方上方に移り始め、一番機の真後から左側に移つた時727型機が市川の搭乗機のすぐ後に見えた。」「727型機を発見した時には市川機は私の機から見て七時の方向に位置していたが、私の機との距離は約六、〇〇〇フイート、高度差二、五〇〇フイート位と思う。」「私の機は終始マツハ〇・七二を維持していた。」「市川機は〇・七二から〇・七四まで変化させ、七二七型機を発見した位置では〇・七四位だつたと思う。」旨述べているのであるから、これを被告人市川の前記供述と対照してみると、同被告人の左旋回開始後接触時までの飛行経路は、同被告人が正確に記憶するとしないとに拘らず、常に訓練生の動きを監視している教官によつても裏付けられているということができる。従つてこれらの供述が反映したものと認められる事故調査報告書の拡大図即ち被告人市川が左旋回に入つた接触前二九秒以降接触時までの同被告人の飛行経路は、接触前四秒以降接触時までの航跡がほぼ実態に近い精度の高いものであることと相俟ちその妥当性を肯認するに足るものということができる。しかし乍ら左旋回開始以前の航跡即ち一八〇度右旋回ならびにこれに引続く直線飛行経路については、同被告人の検察官に対する各供述調書を検討してみても記憶は全く不確実で捕捉し難いことが明らかである。作図はこの航跡を主として機動隊形の飛行要領に基準をおいて作図したものであるが、当審第二回検証において、機動隊形の編隊飛行を再現し、教官機には航空自衛隊航空総隊司令部飛行隊三等空佐川野英明(総飛行時間約五、一三二時間、F―86F飛行時間約一、七六二時間)が、訓練機には同飛行隊三等空佐小川勝博(総飛行時間約四、六一五時間、F―86F飛行時間約一、九三五時間)がそれぞれ搭乗し高度約二〇、〇〇〇フイート真対気速度三九〇ノツトで実施した結果によれば、両機が一八〇度右旋回の位置について旋回を始めその終了後九〇度左旋回に移行してそれを完了するまでの所要時間は、一回目が五分一二秒、二回目が四分二六秒で、経験豊富な教官機と訓練機が同じ飛行要領に従つて飛行しても現実的には相違の生ずることが認められるので市川機が飛行要領に従つて教官機に追従したとして作図することは、他にこれを裏付けるに足る資料がある場合は格別そうでない限りかなりの疑問があるといわなければならない。殊に本件では焼砂からの目撃者である橋本裕臣は「自分の真東方面で北進機が右に旋回してゆくのが判つた。旋回したなと思つたらすぐ白い煙が見えた。」「両方の飛行機をそれぞれ目で追つていたところ、篠ヶ川原部落と駒木野部落の中間でやや駒木野部落寄りの上空で、小型機が右に旋回し始めたところに大型機が来て二機が重なるようになり、飛行機が一機に見え白い煙がパツと上つた。」旨供述しているのであるから、これによると市川機は殆んど右旋回中に接触事故に遭遇したものの如く認められるのである。被告人隈は「右旋回に移る時には、市川機は私の機の右後方約三〇度の位置を飛行していた。その時の市川機と私の機の高度差は約三、〇〇〇フイート、距離は約六、〇〇〇フイートと思われる。」旨(昭和四六年八月一三日付検察官調書)供述しているが、そのときの同被告人の位置が事故調査報告書の作図上に推定される位置であつたかどうか疑問であることは前記のとおりであるので、右供述のみから市川機の航跡を作図のとおり推定することもできない。また当審第二回検証における前記機動隊形飛行の再現において、一八〇度右旋回終了後九〇度左旋回に移行する間に訓練機は一二・五秒の直線飛行をしていることが認められたが、被告人市川の検察官に対する昭和四六年八月一六日付供述調書によると、同被告人はその取調べにおいて前記のとおり検察官から被告人隈との供述の喰い違いを指摘されているのであるが、「隈一尉の供述と私の供述が喰い違つていることを知り、当時の状況をもう一度良く考え直してみました。その結果事故直前と事故時の状況は頭にこびりついて離れないので間違いありませんが、その少し前の段階の記憶はかなり不確かなものであることに気づきました。」旨述べ、結局記憶のはつきりしている部分として図示したところは、これを事故調査報告書の作図に照合してみると接触前一九秒前後から接触時までの航跡であつたことが認められ、左旋回に移行する前に直線飛行の状況がなかつたかどうかの検察官の問いに対しては「あつたかなかつたか覚えておりません。」と答えているのである。前記飛行要領によると、直線飛行中は訓練機は、高度と速度の変換により前後を修正し、機軸を変化させて横間隔を修正しつつ基本位置を保持して教官機に追従飛行することとなつているのであるから、被告人市川が若し一〇数秒でも右要領に従つて直線飛行をしていれば、被告人隈の場合と同様同被告人にもその記憶は残つていたと思われるのに、その記憶がないということは寧ろそれがなかつたことを裏付けるのではないかと考えられる。その上本件では直線飛行を否定するような前記目撃証拠も存在するのであるから、飛行要領に基づく作図の妥当性は到底これを容認することはできない。

なお被告人市川は、昭和四六年八月二日付検察官調書において「機首の線を基準に約一五〇度の地点に水色の機体を発見し瞬間民間機と判断しました。そのときの視界に入つた民間機は左翼の半分位と胴体の後部半分位以外の部分でありました。」旨供述し、同月一〇日付供述調書において更に「私の目に入つた民間機の機体はノーズ(機首)の部分と機体のほぼ中央部と左主翼のつけ根部分と右主翼の先端部分であります。」と述べ、それを図示しているのであるが、当審証人黒田勲、同鷹尾洋保の各証言ならびに右両名作成名義の鑑定書によれば、接触前四秒以降の全日空機と市川機の速度、高度、降下角、接触時の角度、風向、風速等は事故調査報告書のとおり諸元を設定し、被告人市川の作図に示した右目撃状況を基礎としてコンピユーターを用い推定した結果接触前一、二秒の市川機の姿勢は交差角〇・八一度ないし一・七四度バンク角〇度ないし三度であつたとして、事故調査報告書が接触直前までの市川機のバンク角を二〇度、交差角を七度(同報告書三八頁)として同機の航跡を推定していることの矛盾を指摘するのであるが、仮に右鑑定書のように交差角〇・八一度ないし一・七四度、バンク角〇度ないし三度であつたとするならば、市川機の機首部がどうして全日空機の垂直尾翼に接触したのか説明がつかない。同被告人は昭和四六年八月一〇日付検察官調書において、右後方に首を廻して見た瞬間の民間機に対する目撃状況を作図しているのであるが、同時に同被告人は、そのときは自機のバンク角を二〇度にゆるめたときであつたということ、民間機と自機の機軸線の角度は一〇度ないし二〇度の間にあつたと思うということ、民間機は若干右に向きながらその角度を保ちつついわば斜めに滑るようにして凄い勢いで自機に近づいて来たということ、更に発見と同時に左旋回しながら急上昇すればあるいは衝突を避けられると即座に判断し操縦桿を左後方に思い切り引いた、その瞬間のバンク角が四〇度ないし五〇度左に傾きノーズが三〇度ないし四〇度位に上がつたが、上昇効果が出たかどうか判らない。殆んど同時位に「どん」と下から突き上げられるような衝撃を感じた旨述べているのであるから、作図を基礎とした右鑑定書の計算結果は必ずしも同被告人の記憶とも合致せず、寧ろ矛盾点さえ存在していることが認められるのである。接触痕、擦傷痕等動かすことのできない証拠に基づく科学的調査とその推定を無視して、人の視認に全面的に依拠することは合理性に乏しいというほかはない。また前記証人ならびに鑑定書は、報告書の航跡図は接触時のバンク角四〇度ないし六〇度を無視していると非難するが、被告人市川の右供述に照せば、その理由のないことも自ら明らかである。右各証人の証言並に鑑定の結果は前記認定を妨げるものとは認め難い。

(C) まとめ

これを要するに、原判決が認定の基礎とした事故調査報告書の接触前約三分以降の各機の相対飛行経路は、教官機については、接触時から遡つて接触前四四秒に至る間(直線飛行を一〇秒とすれば接触前三九秒)即ち約一〇秒ないし一五秒間の直線飛行とそれに引続く左旋回の飛行経路は被告人隈の供述によつてもほぼ裏付けられるところであり概ね実態に近いかなり精度の高い相対飛行経路を示すものと認めうるが、それより更に遡る航跡については、同被告人の記憶とも明らかに相容れないとろがあり、これを実態に近いものと認めることはできず、さりとてそれがいかなる航跡であつたかということもこれを推定するに足る資料は存在しない。訓練機については、接触時から遡つて接触前二九秒に至る間即ち左旋回に入つて以降の飛行経路はほぼ実態に近い相対飛行経路を示すものと認めうるが、それより遡る航跡については、相反する証拠もありこれを作図どおり認めることは到底許されることではない。

海法鑑定は、主としてカラー・データ・フイルムの解析を基にして自衛隊機の航跡を原判決添付別紙第二図の範囲〔B〕内を飛行していたものと推定しているが、原判決は証拠を挙げてその採用できない理由を説示しているところであり、その理由は当裁判所もこれを是認できるので、右推定は前記認定を妨げるものではない。

してみると接触前約三分以降接触時までの関係各機の相対飛行経路についての原判決の認定は、教官機、訓練機それぞれについて前記認定の限度でその妥当性を肯認することができるが、その余はこれを認定するをえず、またそれを推定するに足る証拠資料も存在しないといわなければならない。所論はこの点につき縷々反論するけれども、右認定の限度で原判決に所論指摘のような理由不備、採証法則違反、事実誤認等の違法の廉は存しない。

四  接触時刻について

原判決は、この点につき事故調査報告書が推定する午後二時二分三九秒ころ、黒田鑑定書が推定する午後二時二分三一秒以前、海法鑑定書が推定する二分一五秒プラス・マイナス三〇秒に対しそれぞれ検討を加えたうえ、本件事案の証拠に基づく限り接触時刻は午後二時二分過ぎころであるという以上に強いて認定することは適当でないとしている。

(1) しかし乍ら前記証人山県昌夫、同荒木浩、同後藤安二の各証言を総合すれば、事故調査報告書において推定している右接触時刻には極めて正確性の高いものがあることを認定するに足る。即ち同報告書は全日空機が事故当時発したと認められる雑音を記録していた管制交信テープの分析結果を基礎資料としたものであが、同報告書によると次のとおりである。

全日空機の発した右雑音は、全日空機機長席のブームマイクの送信ボタンを空押ししたことにより、当時使用さてれいた第一超短波無線電話送受信機(一三五・九メガヘルツ、アンテナは胴体上部胴体ステーシヨン七一〇にある。)から送信が行われ、札幌管制区管制所(受信アンテナおよび受信装置は三沢市にある。)、新潟飛行場管制所および松島飛行場管制所の各一三五・九メガヘルツの管制交信テープにほぼ午後二時二分三二・一秒から同時に記録されており、そのうち二分三六・五秒から四四・七秒までの八・二秒間の雑音は、新潟、松島の管制交信テープには連続して記録されているのにかかわらず、札幌管制区管制所のそれには三七・九秒から三八・五秒までの〇・六秒間と四二・五秒から四四・六秒までの二・一秒間の二度の中断が存在する。そして右中断の原因については、本件事故当時において右三管制所の全日空機からの送信に対する受信条件は全日空機が正常に飛行している限り札幌管制区管制所において特に劣つているとは認められないから、同管制所の受信記録にのみ生じた右中断は何らかの物理的な理由によると考えるのが妥当であり、全日空機は空中接触地点付近では送信アンテナの指向特性に関して機体の姿勢が正常な位置から外れて、ある程度変位すると、三沢市にある受信アンテナ方向の電界強度が著しく変化する可能性があるような微妙な位置および方位にあつたもので、このことから判断すると、右雑音の中断のうち二分四二・五秒から四四・六秒までのものは、全日空機の接触後に起つた機体の姿勢の変化によつて生じたものと推定され、二分三七・九秒から三八・五秒までのものは、その中断時間が〇・六秒という短時間のものであることから、それが機体の姿勢変化に基づくものとは考えられず、その原因として先づ考えられることは、全日空機の送信アンテナと三沢市にある受信アンテナとを結ぶ線上またはその近傍に、かつ送信アンテナのごく近くに一瞬他の物体が介在することによつて生じた電波の遮蔽、干渉の結果でないかということであり、そうすると右中断は訓練機が全日空機の近傍を通過することによつて生じた可能性が大きいと考えられ、そう考えると続いて起つた前記の中断に関する推定とも事象としてよくつながる。このことから接触時刻は一四時二分三九秒ころと推定されるとしているのである。

そして前記証人荒木浩の証言によれば、運輸省電子航法研究所で、右交信テープの雑音の中断が果して起こりうるものかどうかを全日空機と自衛隊機の各模型の表面に銅粉を塗つて実験したところ、全日空機の送信アンテナと受信アンテナを結ぶ線上に航空機が入ると電界強度が落ちることが確認されたことが認められる。

また前掲各証拠によれば、ブームマイクの送信ボタンは操縦輪の左先端スタビライザー・トリムスイツチの裏側にあり、操縦輪に手をかけた正常な握り位置で、人指し指の腹の部分が触れる位置にあつて手の指に力を加えただけで容易に入(オン)の状態になるものであるが、航空機操縦士は通常送信にあたつて送信ボタンを空押しすると他の交信が著しく阻害されるため平常の状況で送信ボタンを意識的に突押しすることは考えられない。まして計器飛行方式で航行する航空機の位置通報用の一三五・九メガヘルツで八秒余にも亘り送信せずに送信ボタンを押しつづけて雑音を発生させていたということは到底考えられないことであり、従つてこの空押しは当時全日空機長に何らかの異常を感得せめる切迫した状況の発生があつたことを推定せしめるに十分である。

前記三管制所の交信テープには更に札幌管制区管制所において接触約七秒前の二分三二・一秒から三二・四秒の〇・三秒間、新潟飛行場管制所において二分三二・二秒から三二・四秒の〇・二秒間、松島飛行場管制所において二分三二・二秒から三二・五秒の〇・三秒間それぞれ雑音が記録されている。事故調査報告書がこれらの雑音につき「接触約七秒前の〇・三秒間の空押しは、全日空機長が自己機の間近に訓練機を視認し、またはそれ以前から視認していた訓練機が予測に反して急速に接近してきたため操縦輪を強く保持したためであり、接触二・五秒前から後の雑音は、訓練機が更に自己機の斜め前方に接近してきたため緊張状態になり操縦輪を再度強く握りしめたためである。」と推定していることは、関係証拠と照合し極めて合理性が高い。

(2) 原判決は「接触約七秒前に全日空機長が訓練機を視認していたとするならば……この時点において少くとも危険な状態にあることについてもこれを認識し得たと考えられるのに、ただ操縦輪を強く保持していただけでなく、他の交信が著しく阻害され、且つ自身の耳にも雑音が入るようなブームマイクの空押しを二度は亘つてなしたというのは、緊張感のためとはいえ、相当の経験を有する操縦士のとつた措置としては不自然の感を払拭し得ない。」「ブームマイクの雑音の分析だけでは全日空機操縦者が訓練機を視認していたと認定するのは困難……。」としているが、現実にかかる措置をとつていることが明らかに認められる以上経験を有する操縦士なるがゆえに異常事態の発生を推認せしめるに足るものがあり、それは全日空機長がその事態を視認したことによるものとしなければ説明がつかないのである。事故調査報告書の叙上推定には何ら不自然な点は認められない。

なお同報告書が(1)新潟飛行場管制所の管制交信テープの音声部分を分析して、全日空機長が二分五〇秒ころから五三・六秒ころまでの間エマージエンシーの通報をしていること、フライト・データ・レコーダの垂直加速度は接触後一六秒前後でマイナス二Gを超えていること、右垂直加速度の変化値の時間的推移からみて、全日空機長が操縦輪を保持し通話することが可能なのは接触後十数秒間が限度であると考えられるから接触時刻は二分三七秒以降である可能性が大きい。(2)全日空機長は最初のエマージエンシーの通報を二分五〇秒ころ発しているが、同機長が接触による機体の異常を知り機位の立て直しを計るなどの行動に出た後右通報までに約一〇秒位を要したと判断されることから、接触時刻は二分四〇秒を中心とする数秒間の時間帯にあつたと推認される。(3)前記交信テープに記録されていた被告人隈の二五三・九メガヘルツによる緊急通信によると、同被告人は二分四八・三秒に最初のエマージエンシーの通報をしているが、全日空機の市川機への接近を認めて市川機に回避の指令を与えた直後市川機の墜落を視認して接触事故の発生を認知したうえ、右通報をしたとすると、その間に六秒ないし一〇秒の時間的間隔があつたものと考られるから、接触時刻は右(2)とほぼ同様の時間帯に含まれる可能性が大である。として前記接触時刻の推定を裏付ける状況証拠としている点は、原判決が右(2)、(3)について時間的推定には不確定要素が多分に含まれ具体的にその所要時間を確定するのは困難であるから「たとえそれが裏付け的なものであるとしても無理がある。」とし、(1)について「マイナス三Gにおいてもなお声程度は出しうるとの資料も存在する」から「躊躇される」として排斥しているが、前記証人山県昌夫、同荒木浩、同後藤安二らの各証言によれば、右状況証拠はいずれも確たる証拠に基づく合理的な推定の範囲を逸脱するものでないことが窺われるので、必ずしも一がいに排斥さるべき性質のものではない。

右認定に反する黒田鑑定の推定接触時刻は原判決が黒田鑑定書の接触時刻とその検討の項において、その採用し得ない理由を説示しているところであり、当裁判所もこれを是認できる。海法鑑定の推定時刻は、それ自体相当の幅を有するものであるから前記認定を妨げるものではない。

(3) これを要するに本件接触時刻は一四時二分三九秒ころと認定するのが相当であり、原判決がこれを一四時二分過ぎころと認定したのは、信用できる事故調査報告書の推定接触時刻を排斥した点において誤りはあるが、判決に影響を及ぼす誤認と認めることはできない。この点の所論も採用できない。

第二被告人隈太茂津の弁護人小坂志磨夫、同内田文喬の控訴趣意第二点、第三点、同弁護人柳原武男の控訴趣意第二点ないし第四点、被告人市川良美の弁護人山崎清、同大沢三郎の控訴趣意第一点ないし第五点、同弁護人藤本時義の控訴趣意第一点、第二点について

各所論は要するに原判決が被告人両名に対し見張り義務違反による過失を認定したことは、両被告人の全日空機に対する視認可能性、結果予見可能性等の認定を誤り、刑法二一一条の解釈適用を誤つた結果によるものであつて、その過程には理由不備、採証法則違反は固より憲法違反、判例違反等があり、到底破棄を免れないというのである。

原判決が被告人両名の過失を論証するに当り、原判決添付別紙第三図の全日空機、隈機、市川機の相対飛行経路を前提として、見張りによる接触予見の可能性と回避可能性を検討したうえ、被告人隈について「接触約四四秒前から約二七秒前までの間に全日空機を視認し、市川機との接触を予見しておれば十分に結果の発生を回避するに適した措置をとり、本件事故の発生を未然に防止することができたものであり、従つて同被告人にはそのような措置をとるべき義務があつた。」。被告人市川について「訓練生として本件機動隊形訓練の状況の下で、少くとも接触四四秒前から接触約三〇秒前までの一五秒間教官機に追従して直線飛行を継続していた期間に、全日空機を視認することが可能であつた。」「前記期間に被告人市川が全日空機を視認していれば十分接触を回避し得たものと認定することができる。従つて同被告人には右回避の措置をとるべき義務があつた。」としたうえ、それぞれに有責性を認め被告人両名の過失を認定していることは所論のとおりである。

(当裁判所の判断)

そこで所論に鑑み記録を精査し当審における事実取調べの結果をも斟酌して原判決の右認定の当否を検討するに

(一)  当裁判所の認定した接触地点、相対飛行経路

全日空機は、ジエツトルートJ11Lに沿つてその両側五マイルの保護空域内を高度二八、〇〇〇フイート(約八、五〇〇メートル)、真対気速度四八七ノツト(マツハ約〇・七九=時速約九〇二キロメートル)、機首磁方位一八九度ないし一九〇度で接触時まで水平定常飛行を続けて南下し、昭和四六年七月三〇日午後二時二分三九秒ころ、本件接触地点である雫石駅の西方〇・四キロメートルから北へ三・三キロメートルの地点(北緯三九度四三分、東経一四〇度五八・四分)を中心とする東西一キロメートル、南北一・五キロメートルの長円上空内において、市川機と接触したもので、その中心点はジエツトルートJ11Lの中心線から西へ約四キロメートルの位置であつたこと、接触の際の全日空機と市川機、隈機の相対飛行経路は、隈機については接触前四四秒ないし三九秒以降、市川機については接触前二九秒以降においてそれぞれ原判決添付別紙第三図のとおりの相対飛行経路をとつていたことが認定できることは前記説示のとおりである。

(二)  事故調査報告書によると、右認定の接触直前における相対飛行経路を飛行中の被告人隈からみた全日空機ならびに市川機に対する視角の大きさ、位置および距離は、接触三〇秒前の時点において、全日空機は、隈機の右方七八度、上方一〇度の距離四・三キロメートルの位置にあつて、視角は八一分2、市川機は隈機の右方一一六度、上方二九度の距離一・九キロメートルの位置にあつて視角は七三分2であり、接触二〇秒前の時点において、全日空機は隈機の右方一〇六度、下方一一度の距離二・五キロメートルの位置にあつて視角は一八〇分2、市川機は隈機の右方一三二度、上方一〇度の距離一・七キロメートルの位置にあつて視角は一〇〇分2であり、接触一四秒前の時点において、全日空機は隈機の右方一三〇度上方三度の距離一・八キロメートルの位置にあつて視角は五〇〇分2、市川機は隈機の右方一四九度、上方一九度の距離一・五キロメートルの位置にあつて視角は一〇〇分2であり、接触七秒前の時点において、全日空機は隈機の右方一六四度、上方二五度の距離一・六キロメートルの位置にあつて視角は八二〇分2、市川機は隈機の右方一七三度、上方三一度の距離一・六キロメートルの位置にあつて視角は一一〇分2であり、被告人隈にとつては市川機の方を見ていれば少くとも接触約三〇秒前からは注視野(固視点を中心とする四四度から五〇度の範囲)内に全日空機が存在していたこと。被告人市川からみた全日空機ならびに隈機に対する視角の大きさ、位置および距離は、接触約三〇秒前頃の時点において、全日空機は市川機の右方五八度、下方三度の距離三・一キロメートルの位置にあつて視角は二一〇分2、隈機は市川機の左方六四度、下方二九度の距離一・九キロメートルの位置にあつて視角は六九分2であり、接触二〇秒前の時点において、全日空機は市川機の右方八三度、下方三三度の距離一・四キロメートルの位置にあつて視角は一、〇〇〇分2、隈機は市川機の左方三七度、下方一五度の距離一・七キロメートルの位置にあつて視角は五六分2であり、接触一四秒前の時点において、全日空機は市川機の右方九六度、下方三四度の距離〇・七キロメートルの位置にあつて視角は三、五〇〇分2、隈機は市川機の左方二〇度、下方二六度の距離一・五キロメートルの位置にあつて視角は二七分2であり、接触七秒前の時点において、全日空機は市川機の右方一一六度、下方三三度の距離〇・三キロメートルの位置にあつて視角は二四、〇〇〇分2、隈機は市川機の右方六度、下方三九度の距離一・六キロメートルの位置にあつて視角は一〇〇分2であり、被告人市川にとつては、前方を見ていても、隈機の方を見ていても全日空機は注視野の外にあつたことが認められる。

視界内にある物体の視認の可否については、原判決がその挙示する関係各証拠により認定するところは、当裁判所もこれを是認することができる。これによると被告人隈の視力は遠距離視力が左、右とも一・二で、近距離視力は右一・一左一・〇であり、被告人市川の視力は遠距離視力が左、右とも一・〇で、近距離視力が左、右とも一・一であつて視認に困難を生ずるものではなく、接触地点周辺の気象状況は、雲高三、〇〇〇フイート(九一〇メートル)、雲量八分の一、視程一〇キロメートル以上で有視界気象状態であり、接触地点付近の高度における気象は、雲が全くない晴天で、視程も一〇キロメートル以上、視程によつて視認が困難になるような状況にはなく、本件事故発生当時における太陽は少くとも当該機相互の視認を妨げない位置にあつたことが認められ、その他視認判定にかかわりのある原判示諸要素は視角の大きさ以外は被告人両名の視認に影響を及ぼすべき特段の事情はなかつたと認められる(右認定に反する黒田鑑定書の採用しえないことは原判決指摘のとおり当裁判所もこれを是認できるので、この点の所論は採用できない。)ので、本件では主として視角の大きさを基準として視認の可否を論ずることに不合理はない。この点は地上目撃者の目撃状況からしても十分に裏付けられるところである。

事故調査報告書によると、「一般的に視認に関する要件が理想的な場合直視して発見できる最小の視角の大きさは〇・七分(高さの視角)×〇・七分(横の視角)=〇・五分2であるが、飛行中の航空機の乗務員室にあつては視程が良好な場合であつても少なくとも〇・五分2の四倍(二分2)の大きさが必要であることが認められる。これによると被告人隈は前記のとおり接触約三〇秒前以降において、市川機の方を見ていれば注視野の中にあつた全日空機の視角の大きさは三〇秒前の時点において八一分2、二〇秒前の時点において一八〇分2、一四秒前の時点において五〇〇分2、七秒前の時点において八二〇分2であつたのであるから、全日空機に対する視認の可能性は十分にあつたということができる。他方被告人市川は前方を見ていても、隈機の方を見ていても、右いずれの時点においても全日空機は注視野の外にあつたことは前記のとおりである。

(三)  ジエツトルートJ11Lと機動隊形飛行訓練

原審証人池田郁雄、同永竹庄平の各供述に札幌航空交通管制部長作成名義「全日空機事故関係資料の送付について」と題する書面、検察官作成の「ジエツトルート(J11L)の交通量に関する調査結果一覧表の受領について(報告)」と題する書面によると、本件ジエツトルート「J11L」は一日に平均約三〇機の定期旅客機等が飛行し、東北地方おいては、ジエツトルート「J15L」「J35L」とともにかなり飛行頻度の高い飛行経路であつて、全国的にみても中程度に位置する飛行頻度をもつ経路であることが認められる。

原審証人山下憲一、同池田博、同井上卓三、同山県昌夫の各供述を総合すれば、ジエツトルートを管制承認を受けて飛行する航空機の操縦者は、殆んどがジエツトルートの直上を飛行するように努めているのであるが、天候による影響、計器の誤差などからルート上を常に正確に飛行しうるものでないことは当然であつて、偏流修正の最大限が四・五マイルであることから、航空路の幅と同様ジエツトルートの両側五マイル(九キロメートル)位までの範囲を飛行することは通常ありうることであることが認められ、本件当時も全日空機がジエツトルートJ11Lの中心線から両側五マイルの保護空域内を飛行していたことは前記認定のとおりである。

そもそも高速の大型旅客機が右のような比較的高い瀕度をもつて航行する本件ジエツトルートならびに両側五マイルの空域内を、前記説示のとおり高速の教官機と訓練機が高度差二、五〇〇ないし三、五〇〇フイートの相当広い空間をとつて位置し、旋回時においては、三番機は上下、左右に移行し、その旋回半径もバンク角三〇度とした場合はほぼ四ないし五マイルを要し、そのような旋回を繰り返えし行う機動隊形の飛行訓練を実施するということは、極めて危険なことであることはいうまでもない。

松島派遣飛行訓練準則一五条二項では「飛行制限空域(別紙第三)内での飛行訓練(航法、SFO((模擬緊急着陸))、計器出発、進入を除く。)はやむを得ない場合を除き、実施しないものとする。」と規定し、同準則別紙第三において、(A)航空路A―7の一〇、〇〇〇フイートから一五、〇〇〇フイート及び二五、〇〇〇フイートから三一、〇〇〇フイート、(B)バンダイルート、ジエツトルートJ11Lの両側五マイル内の二五、〇〇〇フイートから三一、〇〇〇フイート、(C)航空路R―19(太子・HADDOCK)の二八、〇〇〇フイート以上、(D)東経一四〇度四五分線(北緯三六度四六分から南)、太子R―19(ウエスト・バンド)で囲まれる空域をいずれも飛行制限空域としていることが明らかで、松島派遣隊が本件ジエツトルートJ11Lの両側五マイル(九キロメートル)内の二五、〇〇〇フイートから三一、〇〇〇フイートを飛行制限空域としていることは、前記の事情に照しまことに当然の規制措置であつたというべきで、原判決が右制限空域内において機動隊形の編隊飛行訓練を実施することは条理上当然許さるべきでないと判断したことは正当である。

(四)  盛岡訓練空域設定の経緯

ところでジエツトルートJ11Lに隣接した原判示盛岡訓練空域が設定された経緯は、原判決認定のとおりで、当裁判所もこれを是認できるところ、これによれば「松島派遣隊では、同派遣隊の所属する第一航空団の飛行訓練規則に基づき、松島派遣隊飛行訓練準則を制定し、同派遣隊発足後間もなくの昭和四六年七月一〇日から施行した。右飛行訓練準則一五条一項は『飛行訓練は原則として、訓練空域(別紙第一および第二)において実施するものとする。』と規定し、右規定に基づき、松島飛行場の局地飛行空域(同準則別紙第一)内に『横手』『月山』『米沢』『気仙沼』『相馬』とそれぞれ呼称する五つの細分化された局地飛行訓練空域(同別紙第二、以下単に訓練空域という)を設定し、同派遣隊に配属された被告人市川を含む六名の戦闘機操縦課程訓練生に対する飛行訓練及び同月二四日同派遣隊に配属された五名の戦闘機戦技課程訓練生に対する飛行訓練につき、要撃戦闘訓練、航法訓練、計器飛行訓練等の特殊な飛行訓練を除き、各飛行ごとにその際の主たる訓練課目を実施する空域として、右いずれかの細分化された訓練空域を指定して訓練を実施するのを原則としていた。

ところで本件当日における戦闘機操縦課程訓練生に対する飛行訓練は、当初『横手』『月山』『米沢』『相馬』の四つの訓練空域を午前二回、午後に一回それぞれ使用し、右各空域に教官機及び訓練機各一機で構成する二機編隊を各一編隊ずつ割り当て、前記六名の訓練生に対し二度ずつ実施する予定であつた。ところが同日午前八時前ころ、当日の訓練空域を割り当てる任務にあつた訓練幹部の土橋國宏飛行班長補佐が、当時同派遣隊とともに松島飛行場を使用し、前記細分化された五つの訓練空域をも共用していた第四航空団第七飛行隊の担当者と打合せたところ、同派遣隊で予定していた前記四つの訓練空域のうち『相馬』訓練空域を右第四航空団が使用する計画であることが判明し、従前の両隊の訓練空域使用についての申し合せによつて同訓練空域を同派遣隊において使用できなくなつたため、前記の訓練計画を遂行するには訓練空域が一箇所不足することとなつた。そこで土橋飛行班長補佐は、臨時に訓練空域を一箇所設定することにより当日の訓練を予定通り実施しようと考え、航空図により検討したところ、盛岡市と秋田県仙北郡所在の田沢湖との中間付近を中心とした空域に訓練空域を設定する余地があると判断し、同時刻ころ、同派遣隊内のブリーフイングルームにおいて、上司の松井滋明飛行班長に対し、訓練空域が不足するに至つた経緯を説明するとともに、同室内に掲示されていた一〇〇万分の一の航空図に向い、地図上の盛岡市と田沢湖との中間付近の位置を指で差し示しながら、臨時に同所付近空域に『盛岡』と呼称する訓練空域を新設する旨申し出て、同班長の了承を得、更に同室で戦闘機操縦課程の訓練生及び教官らに対し同日の訓練内容についての説明や注意事項を指示していた同課程主任教官小野寺康充に対しても、前同様の事情を話し、使用する訓練空域を『米沢』『月山』『横手』のほかに『盛岡』とすること、及び『盛岡』空域の位置につき同室内の航空図を使用してほぼ前同様の方法で指で差し示しながら説明した。その後松井飛行班長は田中益夫飛行隊長に『盛岡』訓練空域を新設した事情を報告し、同飛行隊長の承認を得た。そのころ右臨時に新設された訓練空域が、右ブリーフイングルームの隣のオペレーシヨンルーム内にある訓練計画を記入してあるスケジユールボードに『盛岡』として表示された。

そして右『盛岡』訓練空域は、被告人らが使用するに先立ち、一回目に小野寺康充教官と椋本恵士訓練生との編隊に、二回目に被告人隈と藤原博美訓練生との編隊に割り当てられ、それぞれ右訓練空域を使用しで訓練を実施……。」するに至つたのである。

(五)  原判決の指摘する厳重な見張り義務について

このように「盛岡」訓練空域は当日の朝になつて訓練の必要上急拠臨時に設定されたものであり、その具体的な範囲は必ずしも明確なものではなかつたが、被告人隈の検察官に対する昭和四六年八月九日付供述調書(二通)によると、被告人隈はジエツトルートJ11Lの中心線は盛岡市の市街地区のほぼ中心部から真西に一〇マイルの地点を通つているので、市街地区の中心部から一五マイル西方がJ11Lの西端と判断し、岩手山を一時位の位置、盛岡市を三時の方向にみて一八〇度右旋回をし、それから左旋回をすればJ11Lの飛行制限空域西端ぎりぎりの位置に達し、その制限空域をほぼ直角に横断できると判断していたことが明らかであるから、同被告人としてはその時点で右ルートに接近し、或は右制限空域に進入することがないよう、また若し右空域に進入することがあつた場合は右ルートを航行する航空機と接触する危険が必然的に増大するのであるから、かかる接触の危険がないよう一層厳重な見張りをなすべき注意義務があつたことは当然というべきで、このことは昭和四五年一月二六日付航空自衛隊達第三号、航空機の運航に関する達一九条二項において「航空機は航空路その他常用飛行経路及びその付近においては、特に見張りを厳重にして他の航空機への異常接近を予防しなければならない。」と規定していることからも明らかで、松島派遣隊の教官である木村恵一も検察官に対する昭和四六年八月一一日付供述調書において「フルードフオアの訓練をする場合に、ジエツトルートや航空路に近づかないようにすることは、危険性から考えても当然のことで、規則はないがパイロツトの常識になつている。」「航法の訓練の時にはジエツトルートや航空路を使つて訓練することはあるが、編隊訓練その他の訓練は危険なので行うべきでないと思う。」旨供述しているのである。尤も被告人隈は原審公判廷において、検察官に対する前記供述を飜えして、ジエツトルートJ11Lは盛岡市上空付近を通過していると認識していた旨述べているが、同被告人の検察官に対する昭和四六年八月一三日付供述調書によると、同被告人は、昭和三八年一月から同四一年二月までと、同四五年五月以降本件に至るまで松島基地に勤務し、その間岩手県上空を何十回何百回も飛行しており、地理的状況も十分了知していたことが認められるので、ジエツトルートJ11Lが盛岡市の市街地区の中心部から真西に一〇マイルの地点を通つている旨述べた前記検察官に対する供述の方に寧ろ信頼性があり、原審公判廷における同被告人の供述はたやすく措信できない。

原判決が、被告人隈につき「盛岡空域とジエツトルートJ11Lが隣接した位置関係にあることを認識していたのであり」「特に厳重な見張り義務が要請されるものであることも教官として十分了知し……且つこれを了知すべきであつたことは明らかである。」と認定していることは正当である。

次に被告人市川については、同被告人は原審公判廷において「本件当時『盛岡』空域が臨時に設定された空域とは考えず、自分だけが知らないもので、その位置、範囲も全然わからず、ジエツトルートJ11Lはその名称は勿論J11Lが北の方に向つてほぼ盛岡市周辺を通過していることも全く知らなかつた。」旨供述しており、同被告人と同期の訓練生である原審証人家田豊および同藤原博美も原審公判廷において、ジエトルートJ11Lについては知らなかつた。J11Lやその飛行制限空域等は本件事故後知つたものである旨証言し、また同じく同期生の原審証人工藤順一も、「J11Lの名称は知らなかつたが、松島から北の方にジエツトルートがあることは大体判つていた。しかしどこを通つているのかは知らなかつた。」旨供述しているので、これらの供述に盛岡訓練空域自体が当日朝になつて臨時に設定された空域である事実とを併せ考察すると、被告人市川は本件当時盛岡訓練空域の位置や範囲は勿論ジエツトルートJ11Lの名称やその経路も全く知らなかつたと認定するのが相当である。尤も同被告人の検察官に対する昭和四六年八月六日付供述調書には「盛岡の西側に函館、松島間を結ぶJ11Lがあり、このジエツトルートと交差している三沢、新潟間のジエツトルートがあつて横手空域の北側がこれらジエツトルートの交差によつて三角形の空域を作つていることは良く承知しておりました。もし盛岡空域が盛岡の西側だとするとその三角形の空域ということになると考えましたが、その空域に盛岡が入つておらず盛岡から大部離れているので盛岡空域とは呼ばないだろうと思いました。それでボードに書いてあつた盛岡空域とは盛岡を含むそれより東側の空域だろうと自分なりに判断した。」旨の記載があり、いかにも同被告人はジエツトルートJ11Lの位置、経路を承知していたかの如くであるが、盛岡訓練空域自体が当日朝になつて臨時に設定された空域であるから、同被告人にとつて盛岡訓練空域の位置、範囲は判然しなかつたのが真相と思われ、それをジエツトルートがどの辺にあるということから盛岡空域は盛岡を含むそれより東側の空域だろうと割り出すような供述をし、それも実際とは全くかけ離れた空域を指示していることは、不自然であり、多分に作られた供述の感を免れず、未だ飛行経験の乏しい同被告人が初めての空域を飛行するのに、その空域にジエツトルートが通つていることを認識していたとしても、前記証人工藤順一の供述によつても窺われるとおり、果して具体的にどの程度の認識であつたかということは判然し難いことであるから、右供述は軽々に措信できず必ずしも前記認定の妨げとならない。また同被告人の検察官に対する同月一一日付供述調書には「ジエツトルートJ11Lは盛岡の西約一〇マイルの地点をほぼ南北に走つている筈です」と述べている部分があるが、「筈です」では具体的に認識していたことにはならず、同調書の他の部分では「編隊で訓練する場合教官が一緒に飛んでいますので教官を全面的に信頼し、教官がジエツトルートの中やその近くで訓練をするような危険なことはしないだろうと思つていた。」旨供述しており、これは裏を返えせば同被告人には当時ジエツトルートJ11Lに対する具体的な認識がなかつたことを供述していることにもなる。更に同調書によれば、同年七月三、四日頃局地内の地形を知るために行われた慣熟飛行の際同被告人は主な目標地点として金華山、気仙沼、水沢、花巻、山形、米沢、猪苗代湖、原町、相馬を一巡し、盛岡市周辺は飛行しておらず、その時の教官からジエツトルートについて教示もされなかつたことが認められるのであるから、同被告人のジエツトルートJ11Lに対する具体的認識は皆無であつたといつても過言ではない。このことは当審において取調べた被告人隈の前記司法警察員に対する供述調書において、同被告人が、自分は飛行訓練の前に航空路のコースを教育したことはない、編隊飛行訓練の目的は教官機と学生機が一体となり、ルールに従い飛行するものであり、学生機が教官機の行動をよく見て追従し、編隊飛行のルールに従い飛行するのであるから、航空路のコースは教官機が知つておればそれで良い、従つてこの時事故が発生したとすればそれは教官の責任である旨述べていることからも十分に裏付けられる。

従つて原判決がこの点につき、被告人市川は「ジエツトルートJ11Lが盛岡市付近上空を通過している程度のことはこれを知つていた」とし、これを前提として「訓練生として本件機動隊形訓練に際しては……見張りを一層厳重に行う必要があつたことを了知し、あるいは少くともこれを了知することができ且つすべきであつた」と認定していることは、その前提に過誤を侵しているといわなければならない。

要するに原判決が被告人らに厳重な見張り義務を認定したのは、前記の状況を前提としたものであるから、被告人隈に関する限りかかる義務の存したことは条理上当然に要請されることであつて、この点の原判決の認定に所論指摘のような違法の廉は存しない。

なお柳原弁護人は、原判決が接触地点を確定しておらず相対飛行経路も全部に亘つて認定していないのであるから、仮に原判決の認定する義務が存在したとしても、本件においてこの義務を具体的に被告人らに課すことは不可能であるというが、原判決の認定した接触地点はジエツトルートJ11Lの管制上の保護空域内〔E〕の西端部付近を除く雫石町付近上空と幅広い認定をしたに過ぎず、結論においてはジエツトルートに隣接した空域で訓練し、これに近接したことを了知していた以上被告人隈に厳重な見張り義務を課することは、当裁判所の認定と同一であつて決して不可能なことではない。同弁護人のこの点の主張も採用できない。

(六)  被告人らの注意義務違反について

一般に過失犯が成立するためには、三つの要件が必要である。即ち注意義務に違反した行為の存在、法益の侵害(結果発生)ならびに因果関係である。そして本件の場合ここにいう注意義務とは結果の発生を予見し、これを回避するために必要な措置をとるべき義務であるから、事故当時の具体的状況下において行為者が果して結果の発生を予見することが可能であつたかどうか、さらに結果の発生を回避することが可能であつたかどうかが検討されなければならないことはいうまでもない。

被告人隈は前記制限空域に接近した時点において右空域に進入することがないよう、また若し進入すればジエツトルートJ11Lを航行する航空機と接触することがないよう厳重な見張りを遂行すべきであつたことは前記のとおりで、同被告人は接触二九秒前即ち右旋回終了後左旋回に移行するとき、市川機が自機の右後方上方に位置しているのを目撃し、左旋回を開始するに従つて市川機が右後方上方から自機の左後方上方に移り始めたのを監視していたのであり、右時点から接触時までの隈機、市川機、全日空機の相対飛行経路、その間の各機の関係位置および視角の大きさは前記説示のとおりであるから、これらを総合すれば、被告人隈としてはその間厳重な見張りを実行しておれば、前記認定のとおり注視野の中にあつた全日空機を視認しうる可能性は十分にあつたのであり、その間に視認しておれば全日空機と市川機の相対位置関係および相互の進行方向から判断して両機が接触することを予見することが可能であつたといわなければならない。

原判決は、機動隊形訓練において航行の安全を期するため、一番機および三番機が基本的に見張るべき範囲は、特別の事態が発生しない限り、その直線飛行期間、旋回飛行の期間のいずれにおいても、それぞれの機の進行方向の左右、無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)であるとし、教官は訓練機を含む編隊全体の航行の安全を確保するため絶えず見張りを行うとともに、訓練機の行動を監視しつつ頻繁に無線で訓練生に指示を与えながら訓練機が正確な位置関係を保持するよう誘導する必要があり、いわゆる外側旋回の場合には、訓練機は教官機の外側後方上空から教官機の後方を交差して内側に移行するようにして旋回飛行するので、教官は首を斜め後方に回して訓練機が教官機の後方にかくれるまで監視を継続し、この場合F―86F機の構造および装備品等による制限のため、斜後方約一五〇度の範囲が限度であるが、教官機から訓練機の監視が可能な限りにおいて訓練機をも含めた編隊全体の前方を見ることもまた可能であるとして戦闘機操縦の訓練目的達成のための見張りとしてではなく、航行安全のための見張りをなすべき義務が右の可能な範囲のすべてにわたつて教官に対し要求されるとまで考えることはできない。教官としてはその職務上安全確保のため、三番機の位置にある訓練生が本来見張るべき範囲を重てね見張るべき義務が課せられているのであるから、一番機を操縦する教官として編隊の航行安全のための見張り義務が存在する範囲は自機の進行方向左右無理なく見える範囲(左右各六〇度余り)と、訓練機の進行方向左右各六〇度余りの範囲であるということができる。従つて教官として見張り義務のある右範囲内にある全日空機に対してのみ視認の義務があつたものというべきで、そうすると、証拠上少くとも直線飛行を継続した接触約四四秒前から約三〇秒前までおよびこれに引続き左旋回に移行した後接触約二七秒前までの間に全日空機は市川機の右方六〇度余りの範囲内に位置していたと認められるのであるから、被告人隈はこの間において見張りを尽すことによつて全日空機を視認することが可能であつたのであり、右の間に視認していれば全日空機と市川機が接触することを予見することが可能であつたとしている。

しかし乍ら被告人隈は前記説示のとおり、接触二九秒前即ち左旋回に移行するとき市川機が自機の右後方上方に位置しているのを目撃し、左旋回を開始するに従つて市川機が右後方上方から自機の左後方上方に移り始めたのを監視していたのであり、その間の全日空機の位置は、接触約三〇秒前、二〇秒前、一四秒前、七秒前の各時点で被告人隈が市川機を視認していれば常に注視野の中にあつたのであるから、見張りを厳重にしていれば視認が可能であつたことは論をまたない。原判決が教官機の見張るべき範囲を検討し原判示のような結論づけをしていることには疑問があるといわなければならない。

次に被告人隈が直線飛行を継続した接触四四秒前から三〇秒前までの間における市川機の航跡は証拠上不明であることは前記説示のとおりであるから、その間に全日空機が市川機の右方六〇度余りの範囲内に位置していたと認めることも証拠上不可能であるというべく、従つて原判決が被告人隈のその間における全日空機に対する視認可能性を認定したことは事実を誤認したものというべきである。しかし結論において原判決はこれに引続き左旋回に移行した後接触約二七秒前までの視認可能性を認定し且つその間における接触予見の可能性を認定しているのであるから、右誤認は判決に影響を及ぼすものということはできない。

原審取調べの黒田鑑定書によると、隈機は接触四五秒前ころから二二秒前ころまでの間は被告人隈の視線が市川機と進行方向との間を移動し、その移動速度が速いうえ、全日空機の位置が視線移動軌跡から隔りがあり、眼球運動筋が疲労することなどから、全日空機の視認は不可能ではないが困難であるとしているが、同鑑定人の原審公判廷における供述によつても、右が視認可能性を否定するものではなく、視線移動軌跡からみれば全日空機は市川機と隈機の前方との中間付近に位置しており寧ろ視認しやすい位置にあつたことが認められる。更に同鑑定書は接触二二秒前から接触直前までについて、隈機は右後方一五〇度で監視は困難となるので視線を一転して左後方に向けて市川機の出現を待つている場合には、接触一、二秒前までは全日空機を発見できず、結局接触二二秒前から接触直前までは全日空機を視認することは不可能であるとしているが、同鑑定人は原審公判廷において実際に視認しえないことはない旨述べているのであるから、右鑑定書の記載は前記認定を妨げるものではない。

次に被告人市川についてこれを検討するに、同被告人が本件当時盛岡訓練空域の位置や範囲は勿論ジエツトルートJ11Lの名称やその経路も全く知らなかつたことは前述のとおりであり、本件当日始めて二回目の機動隊形の飛行訓練を受けていた同被告人が「教官を全面的に信頼し、教官がジエツトルートの中やその近くで訓練するような危険な事はしないだろうと思つていた。」旨述べていることも十分に首肯できるところである。従つて同被告人に対し右ジエツトルートの存在ならびにその制限空域に対する知識の存したことを前提として厳重な見張り義務を要請することは相当でない。被告人市川は昭和四六年五月八日T―33による基本操縦課程を修了し、同日戦闘機操縦課程の履修を命ぜられ、以後F―86F戦闘機に浜松基地で約七時間、松島基地で約一四時間搭乗し、主として基本隊形、梯形隊形、疎開隊形等の編隊飛行訓練を受け、機動隊形の飛行訓練は事故当日の午前中一回、午後に二回目の訓練を受けていた際本件接触事故を惹起したものであることは前記説示のとおりであるところ、同隊形は他の隊形に比し、長機との距離、間隔が前後、左右、上下に非常に離れて移動するので、訓練生としては機動隊形の訓練中は常に正しい位置を保持しつつ教官機に追従していくこと(ステイ・ウイズ・リーダー)が特に強く要求されていたのである。従つて同被告人程度の訓練生が教官機との位置関係の保持にかなりの注意を奪われ、自機の進行方向の安全を確保するための見張りをすることに困難を伴つたことは推察に難くないとする原判決の指摘は首肯できる。

この点につき原審証人寺村純郎(航空幕僚監部教育課長)は「編隊で飛ぶ場合長機だけでなく、訓練生にも見張り義務がある。担し見張りのウエイトの差はある。」「訓練を始めたばかりの訓練生は教官機について行くので一生懸命であれば、ゼロにはならないと思うが相当落ちると思う。」「長機の方向に対しての見張り能力は、長機に追従すると同時に多分に持つているわけだし、それが一番重点になつている。」旨、原審証人石塚勲(航空幕僚監部人事教育部教育課飛行班長)は「編隊の場合訓練生であつても四囲を見張るべきである。」「フルード・フオアの最初の段階では非常に困難であるが、必ずしも不可能ではない。編隊長機ばかりを一生懸命見ている状況では遠くの物は見えない、余裕のある人間にはできるかも知れない。」旨、原審証人土橋國宏(松島派遣隊飛行班長補佐、戦技課程主任教官)は「訓練生は機動中は教官機しか見ていない。但し真すぐ飛んでいる状態では余裕が出来れば見渡す、見張りをする。」「当然学生としても余裕があればいろいろ見張りなり点検なりできるが、一概にこうだというやり方はない。余裕がある場合もある。」旨それぞれ供述し、小野寺康充(松島派遣隊戦闘機操縦課程主任教官)は検察官の取調べに対し「F―86Fに乗つた学生についてはやはり搭乗の許可が与えられている以上ロボツトではないのであるから、常に自分なりに判断してルツク・アラウンドに心掛けなければならない。ただ教官機と編隊を組んでいる場合には教官機について行くのが精一杯の場合もあると思う。学生が飛行中に周囲を見ることが容易なのは教官機が直進中の場合である。」旨述べ、工藤順一は検察官の取調べに対し「特にフルード・フオアは技術的にむずかしく、見張りや自機の確認の余裕はない。ただフルード・フオアの訓練の最中でも機動のはげしくないとき例えば直線飛行を行つている時などは周囲の見張りをしろと言われれば見張りもできる。」旨述べ、被告人市川の検察官に対する昭和四六年八月一七日付供述調書によると同被告人は「アクロバツトやフルード・フオアの旋回中は見張りをするのが困難な場合もあるが、それでも見なくてよいという意味ではないし、常に旋回しているわけではないから、少くとも旋回に入る直前までは自機および教官機の周囲を見張る余裕はある。」旨供述している。

以上を総合すると、被告人市川程度の訓練生としては、機動隊形による編隊飛行中は、少くとも教官機に追従して直線飛行を継続している間は、自機の進行方向の前方、左右の見える範囲は見張りを行うことが可能であるが、旋回中は教官機の方向に対する見張りのみが可能であると認定するのが相当である。

してみると被告人市川については、接触前二九秒以降即ち左旋回開始以降接触までの同被告人の相対飛行経路はこれを証拠上認めうるのであるが、それ以前の航路については、認定不能であることは前記説示のとおりであるから、その航路を認定しえない以上左旋回開始時より接触時までの全日空機に対する同被告人の視認の可否を検討する外はない。そしてその間同被告人が隈機の方向に対する見張りを継続していても全日空機は注視野の外にあつたことは前記のとおりであるから結局同被告人の全日空機に対する視認可能性は否定せざるをえない。

前記黒田鑑定書は、原判示相対飛行経路を前提として更にこの点を次のとおり述べている。即ち市川機は接触三〇秒前左旋回開始後は、隈機との相関関係により、刻々と変化する自機の位置、隊形の変化状態を知る手掛りとしているので、隈機から視線を離すことは考えられない。接触二〇秒前から隈機は市川機の前方計器板にかくれて見えなくなるが、実際には機首下げ、バンクの変化等によりなるべく隈機が見えなくなる時間を短くしなければ編隊長機を見失う結果となるので、自機の姿勢を変えながら、隈機を視界の中に捕捉する努力をする。このため市川機の視線は前方を左から右方へ移つて行く隈機に追随しながら、視線のはなれる時間を最小限にするように隈機に固定されている。この間全日空機は接触二三秒前まで一旦市川機右側方コツクピツト内にかくれるが、二三秒前には右方約七三度に再び出現し、右コックピツト上縁すれすれに後方に移動してゆく。視角は五三分より急速に大きくなつてきている。接触五秒前までは視角は大きくなりながらも後方に移動し、隈機を注視している視線からは、約六五度のへだたりがある。さらに全日空機は次第に前方に移動してきて接触二秒前には隈機へ注目している視線の右四〇度の位置から全日空機の機首部が出現してくる。この時点においては前方に余程注意が奪われていても衝突感をともなつた視認は可能である。これを要するに市川機は接触二秒前までのいずれの時点においても全日空機の視認は不可能であつたと考えられる。二秒前に発見しておれば、接触予見はとつさの間に可能であるが、回避を行うには遅すぎるというのである。

被告人市川は昭和四六年八月一一日付検察官調書において「この度の事故を振り返ると、ルツクアラウンドをしなかつたため民間機の発見が遅れた事によるものと考えられるが、ルツクアラウンドをしていなかつた事の原因は、あの訓練空域付近にジエツトルートがある事を頭において飛行していなかつたことにある。自機がジエツトルートとどれ程の距離にあるかという事を頭においているならルツクアラウンドを十分行つてもつと早目に民間機を発見し事故を避ける事ができたと思う。」「ルツクアラウンドの十分な余裕はなかつたが、多少の余裕はあつた。もしあの当時自機の位置や方向をつかみジエツトルートに近いという事を知つていたならばルツクアラウンドを厳重にやつていたと思う。」旨述べているが、右供述は被告人がジエツトルートJ11Lの位置、経路、訓練空域の範囲を了知していたならばということを前提としての供述であり、同被告人はこの点の知識が皆無であつたことは前記説示のとおりであるから、右供述は事実を度外視した理屈を述べたに過ぎないのであり、前記認定の妨げとなるものではない。

原判決がこの点につき「被告人市川は、訓練生として本件機動隊形訓練の状況の下で、少くとも接触約四四秒前から接触約三〇秒前までの一五秒間教官機に追従して直線飛行を継続していた期間に、全日空機を視認することが可能であり、その間に全日空機を視認していれば、その相対位置関係及び進行方向から判断して、自機が全日空機に接触することを十分予見し得た。」と認定しているのは、結局事実を誤認したものという外はない。

そこで次に被告人隈の回避可能性即ち市川機をして回避せしめる可能性があつたかどうかについて検討してみるに、この点に関する原判決の認定説示は、その挙示する関係各証拠を総合してこれを是認することができる。即ち「この点に関する資料としては、アメリカのモゼリー(MOSELEY)のデータが最も信頼性あるものとして一般に使用されているところ、右データによると、航空機操縦者が接近に関する情報が全くない場合に何等かの映像の存在を認め、それを接近する航空機と認知し、回避方向を判断して回避し終るまでに要する時間は、小型機であれば合計して五・四四五秒間であり、そのうち知覚して回避操作をするまでに三・四四五秒間、航空機の機体に反応が生じ回避するまでに二・〇秒間を要するものとされている。右データ以外の資料においても、F―86Fジエツト戦闘機のような小型機の場合には、概ね五秒ないし七秒間で回避が可能であるとされている。ところで右の各データは、いずれも航空機操縦士が自機に対して接近して来る航空機との衝突を回避するため、自ら知覚、判断、回避操作を行うことを要する数値であつて、本件の場合における被告人隈のように、他人をして回避措置をとらしめることによつて結果を回避するために要する時間として直ちに適用しうるものではない。しかし被告人隈が被告人市川に対し無線により全日空機との接触を回避すべき指示を与え、同被告人が右指示を了解し、回避操作を開始するまでに要する時間は、数秒間あれば十分であると考えられるから、本件において、被告人隈が全日空機を視認して、市川機が回避を終えるまでに要する時間は、前記データを基にして判断すると、約一〇秒前後で足りるものと考えて大差はない。」従つて被告人隈が接触二九秒前から全日空機を視認し、市川機との接触を予見しておれば、十分に結果の発生を回避するに適した措置をとることができたことは明らかである。

(七)  むすび

要するに被告人隈はジエツトルートJ11Lに接近した時点において厳重な見張りを遂行しておれば、本件証拠上同ルートに沿つて南下していた全日空機を接触前二九秒以降において視認しえたのであり、これを視認しておれば同機と市川機との接触を予見し、十分に結果の発生を回避する措置をとることができたのであるから、同被告人に見張りの注意義務に違反した行為の存在したことは明らかであるといわなければならない。

所論は見張りは危険の予見ないし回避のための情報収集行為であるから、客観的に危険の生じる接触二〇秒前ころから以降を検討すれば足りるというけれども、厳重な見張りの要請されていた本件においては、接触二九秒前の時点においても既に危険を予見すべき状況にあつたことは前記のとおりであるから右所論は採るをえない。

機位確認義務違反の点については、発生した結果に最も近接した義務の存否を確定できればそれで足ると解するので、原判決が本件事故に最も近接した見張り義務違反を適法に認定している以上その理由の当否は兎も角機位確認義務違反を認定しなかつたことについて論及の必要を認めない。

なお原判決が接触地点、全日空機の航跡について、当裁判所の認定と異り幅広い認定をしていることは前記説示のとおりであるが、本件においては結局のところ原判決も認定するとおり被告人隈の厳重な見張り義務違反の事実を認定しうる事案であり、機位確認義務違反の点の論及を必要としない事案であるから、原判決の幅広い認定は結論において判決に影響を及ぼすものではない。

原判決の認定に所論指摘のような違法の廉は存せず、同被告人の各弁護人の論旨はいずれも理由がない。

次に被告人市川についてこれを検討するに、同被告人には本件全日空機を視認する可能性も従つてまた同機との接触を予見する可能性も存在しなかつたことは前記説示のとおりであるから、同被告人に見張りの注意義務違反を認定することはできない。機位確認義務違反の点については、同被告人はジエツトルートJ11Lの位置、経路ならびに訓練空域の範囲について、知識は全くなかつたことは前記のとおりであるから、これを了知していたことを前提とする同被告人に対する機位確認義務違反の存在を認定することもできない。結局同被告人には過失犯成立の要件である注意義務に違反した行為の存在を証明することができないのであるから、同被告人に本件事故の刑事責任を負わせることは不可能である。原判決はこの点において事実を誤認したものというべく、同被告人の各弁護人のその余の控訴趣意に対する判断をするまでもなく、原判決中同被告人に関する部分は破棄を免れない。右各弁護人の論旨は理由がある。

第三被告人隈の弁護人小坂志磨夫、同内田文喬の控訴趣意第四点について

(一)  所論は原判決が証拠として採用した鑑定書(事故調査報告書)は、特別の学識、経験をもつ自然人によらないもので無効であるばかりか、刑訴法三二一条四項の供述もあり得ず、刑訴法上証拠能力のないものである。さらに事故調査は事故の再発防止を目的とし、そのため欧米では刑事、民事裁判の資料とならないよう担保しているのに、本件報告書はそのまま鑑定書として犯罪捜査に供された。かかる利用はその調査の趣旨に反し違法、無効であり、証拠としてはならない。また本調査および報告の実態を見るに、目的は偏向し方法は不公正であり、I・C・A・Oの精神に反し、証拠としての適法性を認め難い。また事故原因として言及するところは関係各機に対する帰責価値判断の推定であり、法的価値判断そのものである。この点は本来その権限を超えたもので証拠能力を認めようがないし、他の部分も科学性薄弱で証拠たりえないというのである。

事故調査委員会による航空機事故の調査が、当該事故の発生状況およびその原因等を調査探究し、それによつて事故に至つた要因を除去し且つ事故の再発を将来にわたつて防止することを目的としてなされるものであることは所論指摘のとおりである。

原審証人山県昌夫、同荒木浩、同井戸剛、同後藤安二、同喜多規之の各供述を総合すれば、以下述べる事実が認められる。

本件事故発生と同時に政府は右目的に従い有識者五名即ち東京大学名誉教授、宇宙開発委員会委員山県昌夫、東洋大学工学部教授荒木活、東海大学工学部教授井戸剛、日本航空株式会社航務本部勤務瀬川貞雄、同後藤安二にそれぞれ委員を委嘱し、山県昌夫を委員長とし内閣総理大臣官房交通安全対策室に事務局を置き、事故の翌日である昭和四六年七月三一日全日空機事故調査委員会を発足せしめた。同委員会では、それぞれの委員の専門分野に従い、運航担当グループとして瀬川、後藤委員、機材担当グループとして荒木、井戸委員、管制担当グループとして瀬川、井戸委員を充て、山県委員長がこれを総括主宰し、各委員が自ら調査を担当するとともに、運輸省航空局事故調査課員その他民間航空会社運航技術部員等多数の専門家の補佐を受け、翌昭和四七年七月までの間約一年余の長期間に亘り各担当分野の綿密な調査を実施するとともに、調査結果には更に総合的な討論、検討を加えた。即ち運航担当による全日空機のフライト・データ・レコーダ記録の解析、気象状況、地上目撃者その他関係者の証言、F―86F戦闘機の飛行性能等、機材担当による両機の接触部位、方向、姿勢、破断分離機材による落下軌跡の計算等、管制担当による管制交信テープの解析等事故に関連があると認められるあらゆる分野、角度からの科学的調査と総合的な検討を行つた結果前記説示の接触地点、接触時刻、関係各機の相対飛行経路等を推定し、その推定の上に立つて委員会としての結論を出し、同委員会名をもつて報告書を作成するに至つたものである。従つて本件報告書は委員会を構成する各委員がその専門分野における科学的調査検討に基づく総合的結論を委員会の意見としてまとめた報告書であるから、これを自然人によらない無効のものとすることはできず、また右報告書が法の手続に従い鑑定書として適法に証拠調べがなされ、その作成に関与した委員が、原審公判において証人としてその調査経過を詳細に亘り尋問を受けている以上刑訴法上証拠能力を否定される理由もなく、その記載内容を事実認定の証拠に利用することは何ら差支えないことである。右報告書の作成経過、各般に亘る綿密な調査、これに基づく前記説示の推定の合理性等に鑑みれば、所論の如き目的の偏向、方法の不公正を疑わしめる事由は認め難い。同報告書が事故原因として言及した部分は信憑性の問題であつてこのことのゆえに証拠能力を全面的に否定さるべきいわれはない。所論は採用の限りでない。

(二)  所論は接触地点の認定および機動隊形訓練における長機の見張るべき範囲の認定において原判決は虚無の証拠により事実を認定した違法があるというのである。

なる程接触地点の認定において原判決が幅広い認定をし、長機の見張るべき範囲においても原判決の認定に疑問なしとしないことは前記説示のとおりであるが、接触地点は当該裁判所の認定を相当とするものであり、見張るべき範囲の当否は兎も角被告人隈の見張り義務違反を認定している原判決は結論において正当であるから、右各論点は判決に影響を及ぼす事由とはならない。

論旨はいずれも理由がない。

第四被告人隈の弁護人小坂志磨夫、同内田文喬の控訴趣意第五点について

所論は本件事故は専ら全日空機側の過失に起因する。これを認めなかつた原判決は採証法則に違反し、事実を誤認したものであるというのである。

航空法第九四条では「航空機は有視界気象状態においては計器飛行を行つてはならない。」と規定しており、これはおよそ航空機操縦者は、有視界気象状態下ではその飛行方式(計器飛行方式か有視界方式か)の如何を問わず、周囲に対する見張りを実施して飛行の安全を確保する必要があることを間接的に規定したものと解すべきことは原判決指摘のとおりであるところ、本件全日空機は接触時直前まで管制承認に従つて高度二八、〇〇〇フイート、機首磁方位一八九度ないし一九〇度で当時有視界気象状態下にあつたジエツトルートJ11Lを自動操縦装置により水平定常飛行を継続していたものであることは前記説示のとおりであるから、全日空機操縦者においても本件当時周囲に対する見張りを実施して、飛行の安全を確保すべき義務のあつたことは論を俟たない。

事故調査報告書によると、全日空機操縦者からの隈機および市川機に対する関係位置ならびに視角の大きさは、接触三〇秒前において隈機は左方四三度、下方一〇度、距離四・三キロメートル、視角の大きさ一一分2、市川機は左方六五度、上方三度、距離三・一キロメートル、視角の大きさ二〇分2、接触二〇秒前において、隈機は左方二九度、下方一八度、距離二・五メートル、視角の大きさ三六分2、市川機は左方六五度、上方四度、距離一・四キロメートル、視角の大きさ二四〇分2、接触一四秒前において隈機は左方九度、下方二五度、距離一・八キロメートル、視角の大きさ五〇分2、市川機は左方六三度、上方四度、距離〇・七キロメートル、視角の大きさ三九〇分2、接触七秒前において、隈機は右方二五度、下方二九度、距離一・六キロメートル、視角の大きさ九二分2、市川機は左方六〇度、上方五度、距離〇・三メートル、視角の大きさ三、〇〇〇分2であつたこと、および全日空機長からみて隈機は接触三〇秒前ころから同二〇秒前ころまでは注視野内に位置していたが、同二〇秒前ころから接触直前までコツクピツト(操縦室)内の計器板に隠れて視認できず、また副操縦士からは、隈機は接触三〇秒前ころから接触直前まで同計器板に隠れるため視認できない状況にあり、市川機は機長および副操縦士からみて終始注視野の外にあつたこと(同報告書添付一三図、一四図参照)が認められる。

しかし乍ら優速の全日空機は証拠上認められる市川機の相対航跡において接触約三〇秒前ころ以降は、同機の概ね後方から水平定常飛行を継続しながら同機に接近していたのであり、原審証人佐竹仁の供述によれば、大型旅客機操縦者の見張りについて、定常飛行中は大体左右各四五度(注視野)の範囲を重点とするが、随時九〇度(真横)まで監視する方法がとられている事実が認められるのであるから、当時航行の安全を確保するため周囲に対する見張りを行うべき義務のあつた全日空機操縦者としては、注視野にこだわることなく右の範囲まで監視するのは当然の事理であつたといわなければならない。

そこで更に進んで全日空機操縦者の市川機に対する視認性、ならびに接触予見および回避可能性について検討するに、事故調査報告書によるとその間の全日空機と市川機の飛行状態は、全日空機において真対気速度四八七ノツト、直線飛行、市川機において真対気速度四四五ノツト(四三三ノツトないし四五七ノツトの平均値)、バンク角は接触二九秒前から同二四秒前までが六〇度、同二四秒前から同六秒前までが三〇度、同六秒前から接触直前までが二〇度、接触時が四〇度ないし六〇度、降下率は接触二九秒前から同二三秒前までが毎分一、五〇〇フイート、同二三秒前から同一七秒前までが毎分一、二五〇フイート、同一七秒前から同一二秒前までが一、〇〇〇フイート、同一二秒前から同六秒前までが七五〇フイート、同六秒前から接触時までが毎分五〇〇フイートで、接触直前の両機の飛行経路のなす角は七度であつたことが認められるところ、両機の右飛行状況を前提として全日空機の市川機に対する視認性、接触予見ならびに回避可能性を鑑定した原審取調べの黒田鑑定書によると、視認性について接触二九秒前には左方六三度の位置にある市川機の胴体視角は九分三〇秒を越えておるので、右時点からは接近機についての情報がなくとも視認し易い状態となる。接触二〇秒前から同一〇秒前までは市川機は殆んど同一位置で胴体視角は約二二分、翼視角一三分を越え次第に大きくなり、左バンク三〇度をとつている市川機の胴体先端部は全反射をともなつて、高いコントラストを示していた可能性があるので二〇秒前からは他に注意をひかれていても左方に何らかの存在感を感じる。接触一〇秒前から約三秒前までは市川機の位置は左約六七度から約七四度に移動するが、胴体視角、翼視角ともに急速に増加し、一度を越える。二・五秒前には市川機の胴体視角は六度を越え衝突感を生ずるので、一〇秒前からは前方に余程注意をうばわれる対象物があつても存在感を生じ、二・五秒前からは左方からの衝突感を生ずる。接触予見の可能性について、接触四五秒前から二〇秒前まで市川機は左方六〇度の位置にあつて殆んど動かず垂直角もほぼ同高度を示し、視角は約四分から二〇分と変化し、距離は七、七〇〇メートルから約二、〇〇〇メートルに接近してきているので、数秒間の視認により典型的衝突コースにあることの予見は可能である。二〇秒前から視角は急速に増大してくるが、左方約六六度、垂直角約三度で、市川機の機影はほとんど位置を変えていない。この時点において視認すればさらに早く瞬時に接触が切迫していることの予見は可能である。回避可能性について、接触二九秒前から二〇秒前までに視認しておれば接触予見は容易で余裕をもつて回避が可能である。二〇秒前から一〇秒前までの間においては、視角は急速に増大しており、接触の切迫していることを予見しうるし、回避は時間的にも十分に可能である。一〇秒前において発見した場合には回避はやや困難であるが、なお回避の可能性は存在することが認められる。

しかして全日空機長は、本件接触時即ち一四時二分三九秒ころの直前である一四時二分三二・一秒から三二・四秒までと、二分三六・五秒から接触直後の四四・七秒まで、ブームマイクの送信ボタンを空押ししており、このことは接触七秒前の雑音が発せられた時点において同機長が自己機の間近に訓練機を視認し、またはそれ以前からの視認していた訓練機が予想に反して急速に接近して来たため操縦輪を強く保持したと考えられ、接触約二・五秒前の雑音が発せられた時点においては、同機長は訓練機が自己機の斜め前方に接近して来たため緊急状態となり、操縦輪を再度強く握りしめたと推定されるものであることは前記説示のとおりである。従つて同機長は接触七秒前において市川機を視認していたことは確実であるが、前記黒田鑑定書に照らすと、若し全日空機操縦者においてそれより以前の時点即ち視認可能で且つ回避可能な時間帯である接触二九秒前(それ以前は市川機の相対航跡が不明であるから検討不能である)から同一〇秒までの間に市川機を視認していれば、本件事故は避けえたのではないかということが一応いえるのであり、その限りにおいて全日空機操縦者に見張り義務違反の事実があつたということもできる。

しかし乍らここで考慮しなければならないことは、

(1)  本件のようにジエツトルートJ11Lの中心線から西側五マイルの保護空域(自衛隊機にとつては同時に飛行制限空域でもある)内を自動操縦装置で南下している全日空機操縦者としては、行動の敏捷な小型戦闘機を前方視野内に発見しても、戦闘機の方で旅客機を視認し、回避してくれるものと考え、自分の方はできる限り定常飛行を続けようとするのが一般ではないかということである。このことは原審証人後藤安二、同佐竹仁、同井口清、同井上卓三の各供述を総合して認められる、機体、重量ともに大きい、急激な動作をとることの困難な大型旅客機操縦者としては、非定常飛行中の戦闘機を発見した場合同機の進行方向、経路、高度の変化等を的確に予測判断することは困難な場合が多く、若しその判断を誤り、軽率に回避操作をすれば却つて危険な事態の発生を招きかねず、殊に市川機のように敏捷な小型戦闘機である場合その予測は一層困難でそれを判断するまでに相当の時間的経過を要するので、戦闘機に接近された場合戦闘機側においても見張りによつて旅客機を視認しているものと考え、動きの早い小型戦闘機に回避を期待し、自らは回避操作を行うことなく定常飛行を続けた方が安全であるとの意識をもつているのが通常であるということからも十分に窺われる。前記黒田鑑定書ならびに原審証人黒田勲の供述によると、市川機のその際の飛行状態は非定常飛行とは認め難いというけれども、左旋回中の同機のバンク角、降下率等前記説示の飛行状況に照らすと右を非定常飛行と認めるのが相当である。またこの点は自衛隊機の右旋回を目撃している地上目撃者の目撃状況に照らしても明らかなことである。しかも黒田鑑定書によつても接触二〇秒前から一〇秒前までの視認は、左方に何等かの存在感を感ずる程度のものであるから、同鑑定書が衝突コースにあることの予見可能な市川機を右時点で視認すれば、さらに早く瞬時に接触が切迫していることの予見は可能であるとしていることも、右定常飛行の有意義性に照らし必ずしも首肯できるものとはいえない。従つて黒田鑑定書を全面的に採用して全日空機操縦者の一方的過失を論議することには問題がある。

(2)  他方本件全日空機川西機長は、当日午前中にも本件全日空機を操縦してジエツトルートJ11Lを千歳空港より羽田空港に向け飛行しているのであるが、小野寺教官と椋本訓練生の編隊もその頃右ルートを中に挾んで、機動隊形の飛行訓練を実施し、その際小野寺教官が椋本訓練生のすぐ下をジエツトルートに沿つて南下している右全日空機を発見し、同訓練生に注意を与えたことは前記のとおりであるから、この事実からすると或は川西機長としては、このときの経験もあつて定常飛行を継続しても心配はないと判断していたかも知れず、この推定を否定できる証拠もない。原判決は、判断の具体的当否を別としながらも、そのまま定常飛行を続けてもなお僅かの差で訓練機との接触を回避し得ると判断したと考えることも可能であるとしている。しかしそうなれば事故は現実に発生しているのであるから、全日空機操縦者には具体的判断を誤つたとする余地もないわけではなくなる。原判決のこの点の説示には、にわかに賛同できないものがある。

これを要するに本件が所論の如く全日空機操縦者の一方的過失に起因すると認定するに足る証拠はなく、ましてや被告人隈の制限空域内における厳重な見張り義務を怠つた前記認定の過失を否定し去ることはできないのであるから、所論は採用できない。

弁護人は信頼の原則を主張しているが、全日空機操縦者がジエツトルートJ11Lの保護空域内を通常の意識に従い定常飛行を継続したとしても、これを一般的に非難する理由はないのであるから、本件の場合その原則の適用が考慮されるとすれば寧ろ全日空機操縦者側に有利に考慮されなければならない原則であると解するのが相当である、従つてこの点の所論も採用できない。

第五被告人隈の弁護人小坂志磨夫、同内田文喬の控訴趣意第六点について

所論は被告人隈に対する原判決の量刑不当を主張するので、所論に鑑み記録を精査し当審における事実取調べの結果をも斟酌して検討考察するに、本件は教官である同被告人が比較的頻度の高い常用飛行経路であるジエツトルートJ11Lの保護空域内において、経験の浅い訓練生を伴い右に左に広汎に移動する機動隊形の飛行訓練を実施したことが原因となつて発生した事故であり、多数の乗客を輸送する民間旅客機が頻繁に往来するジエツトルート付近でかかる訓練をすることは接触の危険が極めて大きく、ひと度接触事故を起こせば多数の乗客、乗員の死亡という悲惨な結果を招くことは明白な事柄であつたにも拘らず、このような危険に対する十分な配慮を欠き、慢然訓練を継続した結果全日空五八便機に搭乗していた乗客一五五名、機長、副操縦士、スチユワーデス等乗員七名合計一六二名全員の生命を瞬時に失わしめた責任は誠に重大であるといわなければならない。所論は異常接近は人間の注意能力の最大の発揮によつてもその防止が困難であるところに問題点があり、その防止を専ら限界のある人間の注意能力に依存すことは、却つて防止のための基本的対策とならないばかりか、パイロツトに極めて苛酷な結果を強いることになるとし、本件は事故防止施策の停滞と航空行政の立ち遅れに原因があり、本件事故の被害者は勿論被告人もまたこれら航空行政の立ち遅れと停滞の犠牲者であるという。

なる程諸外国の立法例、事故防止施策ならびに航空行政の実情に照らした場合本件当時の我国においては、航空交通管制業務は、航空法九五条により運輸大臣の所管事項とされているが、同時に防衛庁が管理する飛行場およびこれに発着する航空機に係る一定の管制業務については、同法一三七条三項により、運輸大臣は、防衛庁長官の行う右業務の運営に関する事項を統制することとされているものの両者の運営は必ずしも円滑に機能しておらず、「管制の一元化」が確立されていた西欧諸国の制度に比較し、例えば航空自衛隊の訓練空域あるいは制限空域の設定、変更等について運輸大臣の掌理する航空行政との間に連絡調整を図る十分な手段は講じられておらず、立ち遅れのあつたことは否定できず、また計器飛行方式(I・F・R)により飛行する航空機と有視界飛行方式(V・F・R)により飛行する航空機の混在した我国の高高度管制の状況下にあつては、ジエツトルートを航行するIFR機の安全を図ろうとするときは、VFR機との間に「見て回避する」以外に何らの制度的保障もなく、これに対しては航法援助施設の改善、レーダーによる管制、管制の自動化等の近代化方策とともに、高高度管制区を飛行する全部の航空機の運航を計器飛行方式によらしめ、有視界飛行方式による航空機との混在を排し、すべての航空機に対して管制による安全間隔を確保させることの必要性が強く指摘されていたことも事実である。しかしだからといつて、自分の犯した罪の責任を制度、施策の不備、欠陥に転嫁し去ることは許されることではない。厳重な見張り義務を課せられていた同被告人としては、この義務を誠実に履行しておれば、かくまでに悲惨な事態は発生せずに済んでいたのである。僅かの義務を怠つたために、かくも多数の貴い人命を瞬時に失わしめ、一家の支柱、最愛の妻、最愛の夫、最愛の我が子を永遠に帰らざる不帰の客と化せしめ、あとに取り残された多数の遺族を悲しみと苦しみ、不幸のどん底に陥れた教官としての責任はなんとしても大きい。

所論はまた全日空社ならびに操縦者の怠慢を挙げて、原判決がこれを軽視した点を非難しているが、本件全日空機はジエツトルートJ11Lの保護空域内を自動操縦装置により定常飛行を継続していたのであり、自衛隊機は本件空域内では機動隊形の飛行訓練を制限されていたのであるから非難さるべきことは先ず自衛隊機の側にあつたというべきである。本件事故が全日空機操縦者の一方的過失に起因したものと認むべき証拠のないことは前記説示のとおりであり、原判決も「全日空機側の操縦上の過程に必ずしも明白となし得ない部分が残る以上不明の事実は被告人の利益に扱われるべき刑事訴訟法上の原則に鑑みるならば、この問題については、量刑のうえにおいても……不利益に斟酌されることがあつてはならない。」旨判示しているのであるから、所論の非難は当らない。

その他同被告人の人柄、生い立ち、経歴、家族関係、職場における優れた勤務成績、事故後の反省と謹慎の至情等所論指摘の同被告人に有利な諸々の事情を十分考慮しても、原判決が同被告人に対し禁錮四年の刑を言渡したのは相当と認むべく、これを更に軽減すべき事情は見当らない。論旨は理由がない。

第六むすび

よつて、刑事訴訟法三九六条により被告人隈太茂津の本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文により同被告人の負担たるべきものとし、同法三九七条一項三八二条により原判決中被告人市川良美に関する部分を破棄し、同法四〇〇条但書により改めて次のとおり判決する。

被告人市川良美の本件公訴事実は、

「被告人市川良美は、航空自衛隊第一航空団松島派遣隊飛行隊に戦闘機操縦課程の学生として配属された二等空曹で操縦士の資格を有し、編隊飛行等の実技修得のため、F―86F型ジエツト戦闘機を操縦する業務に従事していた者であるが、同被告人と相被告人隈太茂津の両名は、昭和四六年七月三〇日午後一時二八分ころ、有視界飛行方式による編隊飛行訓練のため、相被告人隈が右戦闘機の編隊一番機(以下隈機と略記する)に、被告人市川が同二番機(以下市川機と略記する)に各単独搭乗して宮城県桃生郡矢本町所在の松島飛行場を離陸し、編隊飛行訓練を実施しつつ同県石巻市東方海上、同県栗原郡築館町付近上空を経て、同日午後一時四五分ころ、岩手県和賀郡湯田町内通称川尻付近上空に至り、そのころから編隊飛行訓練の一種である機動隊形(フイルド・フオア・フオーメーシヨン)の訓練を開始し、隈機が速度マツハ約〇・七二(真対気速度約四四五ノツト、時速約八二四キロメートル)高度約二五、五〇〇フイート(約七、八〇〇メートル)でほぼ水平の旋回飛行を行ない、市川機が隈機の後方上空にあつて速度マツハ約〇・七〇ないし〇・七四(真対気速度約四三三ノツトないし四五七ノツト、時速約八〇二キロメートルないし八四六キロメートル)で隈機の動きに即応して隈機との高度差を約六〇〇フイート(約二一二メートル)から約四、〇〇〇フイート(約一、二一九メートル)までの間で変化させつつ隈機の左右に位置を移動させながら旋回する機動隊形の飛行訓練を繰り返しつつ北進し、同日午後二時少し前ころ、岩手県岩手郡雫石町付近の上空に達したが、同所付近にはジエツト旅客機の常用飛行経路であるジエツトルート「J11L」(函館及び松島の各航空保安施設を直線で結んだ線を中心線とし、中心線の両側八・七マイル((約一六キロメートル))までの巾を有するほぼ南北に走る経路)があつて、前記のような内容の機動隊形訓練を右ルートの中ですれば右ルートを飛行するジエツト旅客機に衝突する危険があり、また前記派遣隊においては右ルートの中心線の両側五マイル(約九キロメートル)の空域を民間航空機との衝突防止のための飛行制限空域に指定しており、被告人市川はそのことを知つていたのであるから、編隊二番機の操縦士として右危険を避けるため、絶えず自機の現在位置を確認しつつ飛行を行なつて右ルートの中で右飛行訓練を行なうことがないようにするとともに、周囲の見張りを厳重に行ない、他の航空機を発見した場合には直ちに他機との衝突を避けるべき業務上の注意事項があつたのにこれを怠り、自機の現在位置を確認することなく、右ルートの中に進入したことに気づかないまま、周囲の見張りを十分に行なわないで右ルートの中の右飛行制限空域内において、隈機の飛行に即応して慢然機動隊形訓練を続行した業務上の過失の競合により、同日午後二時二分三七秒ころ、全日空所属千歳発羽田行第五八便ボーイング727型ジエツト旅客機(以下旅客機と略記する)が右ルートを計器飛行方式により真対気速度約四八七ノツト(マツハ約〇・七九、時速約九〇二キロメートル)で南進してきたのを市川機の後方至近距離に、はじめて発見し、同被告人は左旋回急上昇して衝突を避けようとしたが及ばず、同二分三九秒ころ市川機の右主翼などを旅客機の尾翼部分に衝突させて、両機を前記雫石町付近の地上に墜落させ、その際の衝撃等により別紙被害者一覧表記載のとおり旅客機に搭乗していた池田静江ほか一六一名を全身挫滅傷等により右墜落地点付近において即死させるに至つたものである。」(刑法二一一条前段、改正前の航空法一四二条二項)

というのであるが、前記説示のとおり同被告人の過失を認定するに足る証拠がなく結局犯罪の証明なきに帰するので刑事訴訟法三三六条により主文において無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 三浦克巳 小島建彦 小田部米彦)

別紙(略)

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